雪どけの田舎道をぽくぽく走りながら、そう言えばこの冬は一度も風邪をひかなかった、と気がついた。
扁桃腺が大きくて、はたちを過ぎてからも、年に何度かはかならず高熱を出す体質であったのに。
考えてみれば、昨年まで重度の冷え性だったわたしが、今年は湯たんぽを抱かずに安眠できたし、偏頭痛も肩こりも生理痛も軽くなった。
そもそも、平均体温が0.2度くらい上がったのだ。
夫婦でお世話になっている整体の先生にも、内臓がずいぶん元気になったと褒められた。
つづけて走ると、体がどんどん変化するのでおもしろい。
走るのが「おもしろい」なんて、三年前の自分が聞いたら腰を抜かすだろう。
三年後のわたしは、いったい何に凝っていることやら。
「土に書いた言葉 吉野せいアンソロジー」(山下多恵子編)を読む。
福島県に生まれ、文学をこころざした少女せいは、詩人で開墾農家の三野混沌に嫁ぐ。
三男三女の母となり、農業と子育てに明け暮れるうち、せいは書くことから遠ざかっていく。
やがて、71歳で夫に先立たれてのち、草野心平の励ましで、せいはふたたび筆をとる。
「土に書いた言葉」には、せいが78歳で亡くなるまでの間にのこした随筆や創作、日記の抜粋が収められている。
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開墾農家の暮らしは貧しく、仕事は過酷だった。
夫混沌は一途で純粋、友人も多かったが、言葉に溺れ、社会運動に傾倒するなど、生活者としてはいまひとつ頼りない。
いきおい、農作業と家内の雑事が、せいの肩にずしりとのしかかる。
書きたい、けれどその前に、畑を耕し子供たちを食べさせなければならない。
苛立ちをエネルギーに変えて、せいは猛然と荒地に鍬を打ち込む。
31歳で愛娘を亡くした直後、日記のなかで、せいはこんなふうに書いている。
現在、家庭の女ほどくだらない生涯を終るものはない。能力があっても徒にすりへつてしまふ。実に雑多に、殆ど自分の時間とてもなく死んでしまふ。
「梨花鎮魂(日記)」より
それから40年、夫混沌の詩碑建立の宴席で、草野心平がせいの手を握り、「あんたは書かねばならない」と切り出す場面は圧巻だ。
「…自分のものを、わが一つの生涯を書くことだ。あんたにしか書けない、あんたの筆で、あんたのものをな」
「信といえるなら」より
堰が切れたように、せいは書きはじめる。
何しろ40年ぶんだから、文章の密度が濃い。
夫への愛と憎しみ。自然の厳しさと美しさ。貧困の悲惨と、家族のぬくもり。
それらを全部放り込んで、独特のごつごつした文体で編んでゆく。
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編者による解説に、「混沌はそれとは意識せずに、せいの才能を封印したのではなかったか」という赤坂憲雄の言葉が引かれており、読み終えた後も、喉の小骨みたいに心に引っかかった。
たしかにせいには時間がなかったろう。
書くための精神的なゆとりも。
それはもちろん、三野混沌という人の存在と深い関係がある。
だけど、たぶんそれだけではない。
外側からの刺激と、内側からの衝動と、両方がそろったときに人は「書く」のだと思う。
だから、せいが40年のあいだ「書かなかった」ことにも、外側からと、内側からと、両方の理由があるはずなのだ。
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「土に書いた言葉」に収められた文章のほとんどは、70代に入ってから書かれたものだ。
生活苦やなまなましい夫婦の感情を描いても、題材の熟成がじゅうぶんに進んでいるから、どこか一点がすこんと抜けて、青空が見えるようで、読んでいて心地いい。
たとえば混沌の死後、彼が愛した水石山の展望台にのぼったときの心境をつづった文章。
水石山の標高の岐点、三十センチ立方角の台石の上に私はたった。いわきを取り巻く山なみで一番高所のここに今ぽつりと小さい杭のように。霧がはれて淡い青空と白雲が組み合うように高い頭上にただようている。見上げて目に入るものがない。まさに私は今王者だ。無一文の清々しい貧乏王者だ。思わず胸を張ってくすりと笑ったら、息子がぱちりとやった。
「水石山」より
先に引用した30代の日記の、読み進めることが苦しいような切実さにくらべて、なんともすがすがしい。
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題材の熟成にとって適切な時間は人それぞれで、テーマによっても違う。
「封印」が言葉の深みを増すこともあれば、寝かせる時間が長すぎて腐ることもある。
これはたぶん赤ん坊とか農作物と同じで、種を蒔いて最低限の面倒をみて、あとは自然にまかせていれば、自分で時期を見つくろって、勝手に殻を突き破って外へ出てくる。
吉野せいの「あんたしか書けないもの」は、70歳までじっくり寝かせた題材を、かぎられた時間の中で一気に迸らせる、そういう言葉だったんだと思う。
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女性が、社会や家庭の中でいくつかの役割を掛け持ちしながら書く。
...ということについても書きたかったのだけれど、あんまり長くなったのでまたの機会に。
個人的に興味のあるテーマなので、時間をかけて、実験もして、じっくり考えてみようと思う。