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カテゴリ:読書日記
走ることで、わたしは、自分がこんなにゆっくりしか移動することのできない動物であること、自分以外のもの(チーターとか、自動車とか)にはなりえないことを確かめている。 と、走りながら感じることがある。 どんなにゆっくりでも、足を動かしていれば、いずれどこかには着く。 その実感が、重しのようにわたしを支えてくれる。 湯本香樹実「岸辺の旅」を読む。 このひとの作品は、いつも濃厚な死の気配にふちどられている。 それは同時に、なまなましい生の手ざわりが感じられるということでもある。 湯本香樹実の描く死者は、わたしたちが思い描く「ゆうれい」や「たましい」のイメージと、ずいぶん違っている。 くっきりした輪郭を持ち、食欲を持ち、体温を持つ。 その代わり、中身がぽっかりとつめたい。 生者とまじわっても、「この先」の時間を共有することはない。 過去と現在のはざまで、さびしげに笑って立っている。 死者は断絶している、という概念は、衝撃的だった。 もちろん、あくまでひとりの作家の死生観なのだが、そうかもしれないという可能性を、これまで一度も考えてみたことがなかったから。 真実は、死者にしかわからない。 生者は、生者の希望の範疇でしか、ものごとを推し量ることができないのだ。 人はひとりで生まれて、ひとりで死ぬ。 けれども、生まれてから死ぬまでのあいだは、一瞬もひとりではいられない。 外界との通信を断って山奥に閉じこもっても、やはりひとりにはなれない。 読みながら、そんなことを考えた。 最後のページを読み終えて、川辺を描いた静謐な表紙の一冊を、片手のひらにそっとのせてみる。 妻をのこして音もなく彼岸へ去った夫の、たましいひとつ分の重さだな、と思う。 厚い雲が切れた一瞬の薄明のような、いさぎよい読後感。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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