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テーマ:好きな絵本教えて下さい(711)
カテゴリ:読書日記
地震から8日間が過ぎました。
何よりも、亡くなられた方のご冥福を心からお祈りすると共に、今も不自由な暮らしを余儀なくされる方々に心からお見舞い申し上げます。 そして、不安な夜を過ごしているすべての皆さんに愛を。 悲しみが癒され、苦しみが取り除かれ、不安から解き放たれる日が来ると信じて、毎日祈っています。 こちらは最初の二日間、電気と水道が止まっていましたが、その後は比較的落ち着いた暮らしに戻っています。 初めは一種の興奮状態で、入ってくる情報も冷静により分けることができず、恐怖と希望の間を、ジェットコースターで行き来するような数日間を過ごしました。 判断力を取り戻すにつれ、心が揺れ動いても、針が極端に振り切れる前に中心へ戻れるようになりました。 漠然とした不安や気だるさの中で、それでもつづいていく日常や、その中にあるささやかな光。思わず笑ってしまうようなこと。そういう地味な感覚が、いちばん本来の自分に近いのかも、と思います。 気をつけているのは、ニュースを見すぎないこと。 ちゃんと寝て、食べて、家事も無理のない程度にやり、ふつうの暮らしと心身の健康を維持すること。 今はとりあえず最低限、と思っています。身を低くして力をたくわえる。 専門的な技術のない、妊婦の自分には、今すぐにできることは節電と募金くらいしかない。 その代わり、被災地で奮闘するくまが安心して働けるように、おなかの人と元気で過ごす。 そうして万が一、もうひとつ山がきたときに越えられる体力と、長期的に助けを必要とする人に差しのべる手を、そのときがくるまでしっかり守る。 ひどく落ちこんだり、妙に頭がさえてきたら、風呂に入ってさっさと寝る。 本橋成一「アレクセイと泉のはなし」を読む。 「アレクセイと泉」というドキュメンタリー映画の絵本版。 映画のほうは、10年くらい前に公開されて話題になったから、ご存知の方も多いかもしれない。 深い森をぬけたところにある、ベラルーシのちいさな村。 ページをめくると、緑ゆたかな、おだやかで美しい村の風景の写真がつづく。 人びとはそこで動物を飼い、作物を育て、泉の湧き水を飲んで暮らしている。 昔ながらの、平凡で静かな暮らし。 ただひとつ、昔と違うのは、この土地が、チェルノブイリの原発事故で、見えない放射能に汚染されているということ。 たくさんの人が村を離れたけれど、主人公のアレクセイと55人の年寄りは村に残り、それまでと同じように、体を動かし命を育て、ほがらかに笑い、百年かかって地上に湧き出す泉の水と共に生きている。 そう、泉。 村の土からは、決して低くない濃度の放射能が検出されるけれど、泉の水からはまったく検出されない。 村に残った人たちはみな、口をそろえて、「ここには奇跡の泉があるから」と言う。 泉の水はひっそりと湧きつづけ、あらゆる生きものの命と、人びとの希望をつないでいる――。 * この時期に、この本のことを書くかどうか、ほんとうは少し迷った。 原発の近くに家があり避難している方や、被ばくの危険にさらされながら働いている人たちにとっては、「それどころじゃない」だろう。 「縁起でもない」と感じる人もいるかもしれない。 不快な思いをされた方がいたら、心から申し訳ないと思う。 ここで放射能の危険性や原発の是非について論じるつもりはないし、わたしにはその知識もない。 ただ、わたしはこの素朴な写真絵本を読んで、ここ数日、未知の化学物質へのおそれでガチガチにこわばっていた心が、ほんの少しゆるむのを感じた。 「放射能に汚染された村でも元気に暮らせるんだ、だいじょうぶ」という意味ではない。 大きな不安やおそれがあるからと言って、それまで自分が生きてきた日常が価値を失うわけではないということ。 遠い祖先から受け継ぎ、連綿とつづいてきた聖なる泉が自分の中にもたしかにあって、今度はわたしがそれをおなかの子に手わたし、おなかの子がその子どもにつないで、ひたすらにつづいてゆく。 永遠に近いようなその大きな流れを、一瞬垣間見た気がしたのだ。 この先何が起こるか、あるいは起こらないかは誰にもわからない。 のんきにこんなことを書いているわたし自身、明日はパニックを起こすかもしれない。 だけど、残りの人生があと50年でも1日でも、その時間の過ごし方、何を愛し守り信じるかということは、せめて自分で決めたいと思う。 わたしの中の、透明な水の音に耳を澄ませ、その導く方へ行こう。 アレクセイの村の汚されない泉は、世界中の人たち、生きとし生けるものすべての深いところに眠る水脈と、たしかにつながっているのだと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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