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カテゴリ:読書日記
明け方から、雨が降ったり止んだりしている。 窓を開けると、夏の雨のにおいのする風が入ってくる。 突然降り出す気まぐれな雨に、子どもたちが歓声とも悲鳴ともつかない声を上げて走っていく。 リディア・デイヴィス『話の終わり』を読む。 最近よく行く隣町の図書館で、翻訳者(岸本佐知子)と表紙のデザインにひかれ、借りてきた。 物語は、語り手の「私」が、すでに終わりを迎えた年下の男との恋を振り返るかたちですすめられる。 現在はほかの男性と結婚し、その父親の介護をしている「私」の日常と、過去の恋愛の断片が入り混じる複雑な構造なのだけれども、ふしぎに読みにくくはない。 それどころか、読んでいるわたし自身が、「私」の意識の流れに同調していくのを感じ、奇妙な心地よさをおぼえる。 これといった事件が起こるわけでもないのに、目が言葉を追いかけるのを止められない。 読み終えてからも、そのざらっとした感触が忘れられず、同じ作者の短編集『ほとんど記憶のない女』をつづけて読む。 収められた51の物語は、数行から数十ページまで、長さも文体もばらばらで、「実験小説」とでも呼びたくなるような、ふしぎな味わいをもっている。 たいていの文章には名前や明確な主語がなく、たとえば冒頭近くに置かれた表題作は、こんな書き出しで始まる。 「とても鋭い知性の持ち主だが、ほとんど記憶のない女がいた。日々を暮らしていくのに必要なだけのことは覚えていた。」 表紙をかざるマグリットの抽象画も印象的なのだが、読みながらいつの間にかわたしの頭にうかんでいたのは、アメリカの画家、ホッパーの絵だった。 よく晴れて、からっとかわいて、輪郭がくっきりして、手を伸ばせば触れられそうなのに、どこかで見る者を突き放している。 決して「そちら側」へは行けない、ガラスのむこうの海を見ているような寂寥感。 リディア・デイヴィスのアメリカは、ホッパーのアメリカとすこし似ている、と感じる。 今のところ、日本で翻訳されているのはこの二冊だけのよう。 ほかの作品の翻訳も楽しみに待ちたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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