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カテゴリ:読書日記
朝のさんぽ。 妊娠後期に入って、からだが産後にそなえているのか、早朝に目がさめることが多くなった。 どうせ起きるのなら、夏の朝の涼しい風に吹かれて、緑のにおいをかいで、鳥の声を聴いて朝のひとときを過ごそうと思い、ここ数日、裏山を散歩している。 朝の光を浴びると、からだもしゃっきりして、前向きな気持ちで一日を過ごせる気がする。 おなかの子も、風の音や鳥の声を聴いているだろうか。 多和田葉子「雪の練習生」を読む。 クマ、なのである。 語り手がホッキョクグマなのだ。 読み始めて、まずおどろいたのはそのことだった。 それも、ただのクマじゃない。 第一章「祖母の進化論」の「わたし」は人間の言葉を話し、連日会議に出席しながら、かつてサーカスの舞台に立った経験を自伝にしたためている。 では単純に、擬人化された動物の物語なのかと思っていると、そういうわけではないらしい。 第二章「死の接吻」は、女曲芸師ウルズラ(人間)の視点で語りはじめられる。 ウルズラは、サーカスのクマたちの微妙な心の揺れを読みとる力を持っている。 ここに登場するクマたちは、労働組合を作ってサーカスと交渉したりするものの、ステージ上でウルズラと言葉を交わすようなことはないし、基本的にクマ的生活習慣の範囲を逸脱しない。 やがて、第一章の主人公「わたし」の娘であるホッキョクグマ「トスカ」がサーカスにやってくる。 新しい演目の練習を重ねるうち、ウルズラとトスカの間に、ふたりだけの奇妙でやすらかな時間が訪れる。 クマと人間の境目が揺らぎはじめたところで、物語は次の世代に移る。 第三章「北極を想う日」の語り手は、トスカの息子「クヌート」である。 母親が育児放棄(というのは人間の解釈で、この物語によると、トスカには彼女なりの考えがあるのだが)したため、ベルリン動物園の飼育係によって育てられたという設定は、実在し、世界中でニュースになった同じ名前のホッキョクグマと同じだ。 クヌートは人の言葉を理解するが、祖母のように人語をあやつるわけではない。 したがって動物園の観客には、クヌートの心の内がわからない。 いま、「観客にはクヌートの心の内がわからない」と書きながら、わたしはふと考え込んでしまう。 同じ言葉を話す、同じ種族出身の生き物だからと言って、町ですれ違う人の、一緒に暮らしている家族の心がわかるとはかぎらない。 クヌートと、目が開く前から彼と共に過ごした飼育係のマティアスの意思が通じていないと、誰に言えるだろう。 クヌートの成長と共に、例によって曖昧になっていくクマと人間の境界線をたどりながら、ますますわからなくなる。 言葉とは、書くとは何か。 種族とは、ルーツとは。 背表紙を閉じた後も、雪のように真っ白な毛皮の残像と共に、そんな疑問が頭のなかをぐるぐる回ってはなれない。 と言って、けしてかたくるしい文章ではなく、数ページに一度はくすりと笑いたくなるような、楽しい文体で書かれているのが多和田葉子の魅力。 ああ、もう読んじゃった。また読みたいなあという読書の幸せをたっぷり味わえる小説です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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