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今日は、風の強い、でも晴れて気持ちのいい日。
でも、眠い。 この眠さは、なんだろう。 夢で、久しぶりに、かつて居た、東北大学の松風寮らしき建物が出てくる。 自分は、また大学3年生に編入する。夢では30代前半になっている。 専攻は数学。 数学科の学生を繰り返す夢を、卒業以来、何度見たことか。 数学を学ぶためにもう一度大学を受験する夢も、何度見たことか。 自分は、大学数学という形而上の学問に出会ったお陰で、知の本質を徹底的に考える機会を得た。 他方、肝心の数学そのものの面白さは、知らないで卒業してしまった。 最近思う。すべての知識は、いったいどんな手続きを経て得られたものなのかを。 他方、思う。手続きを経て得られたもののみが、明らかな知識ではないと。 知識と手続きについては、ゲーデルの不完全性定理の比喩で考えてもらってよい。 手続きに重きを置いて知識を定義したように見えるのが、カントやヴィトゲンシュタインである。 最近、診断士の勉強をしているが、2次試験は、問題文に与えられた与件に、ある種のフレームワークを当てはめて、解答を導き出す。 すなわち、自分が、解答を導き出す手続きそのものになるのだが、そのことには、大きな違和感を覚える。 なぜなら、私は、対象に参入したいのだ。 対象と一つになり、対象が語る言葉となりたいのだ。 モノは、在るだけである。人は、モノに口を与える。人は、モノが、その実体は法則であることを明らかにする。モノを対象化し、モノの揚棄を促す。 人は、創造主の子だからこそ、モノを扱える。子供が人形を扱えるように。 でも、子供が大人を目指すように、人は神を目指す。 子供には大人は何でもでき、何でも知っているように見える。子供は大人を真似、大人のように語ろうとする。私も、創造主のようになりたい。 全てを創造し、全てを愛したい。 すると、創造主は、対象の創造破壊の手続きそのものである自己を反省するはずだ。手続きの反省からMathematicsが生まれるはずだ。 私は、創造主の一部として世界を反省したいのだ。 今、この宇宙に居て、生活のために奮闘している自分は、いったい何だというのか? 本来の使命を果たしていないからこそ、何度も数学科に編入する夢を見るのだろう。 地上生活が退屈なら、もし使命を果たせないというなら、死ぬ代わりに良く眠ることから始めよう。 胡蝶の夢のように、パラレルワールドに自由に生きよう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2003年06月03日 00時11分17秒
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