映画『黄金の法』への覚え書き
「ヘルメス、かっこよかったねえ。」と言ったのは、唯物論者の中国人女性だ。「『かっこいいっていうのは、愛と勇気に生きること』ってサトル君が言ってましたねえ」って言ったら、「影響されちゃってえ」ってからかわれた。「でも、少年にとって、志を持つって、大事なことじゃありませんか。若い頃に持った志以上に、大人になってなることはないことを思えば…」って言ったら、今度は同意してくれた。歴史は一つではない。時の輪は無数にある。人は過去を一つと思い、未来を一つと思う。それは、北は一つ、南は一つというのと同じ。ある宇宙にとっては可能性に過ぎなかったものが、別の宇宙にとっては現実性になる。人は、経線を横切るように、違う時間軸に生きることもあるだろう。そうなれば、タイムマシンで30世紀に帰っていくアリサのように、多くの人々と違う過去の記憶を持つことになるだろう。よって、神話の過去も、語る人の心(「蔵識」)がたどってきた軌跡にとって真実なのであれば、それはある時の輪の中で現実に起こったことなのだろうと思う。さすれば、『太陽の法』『黄金の法』で語られる過去や未来が、時の大河の中で、過去起こらなかったこと、未来の時間でも起こらなかったことだとは、誰が言えよう。南北を結ぶ無数の磁力線のように、宇宙はたくさんあって、同時進行しているのだ。さて、今回の映画で、4300年前の英雄ヘルメスの持つ魔法の杖「ケリューケイオンの杖」によって、タイムマシンが制御されるという驚くべきシーンがある。また、黄金の光によってイエスや天台智顗の時代に押し出されるシーンがある。さらには、制御を失ったタイムマシンがサトルのヘルメスへの祈りによって、目的のヘルメスの時代に到達するシーンがある。何故か。サトルとアリサが、根本仏から流れ出てくる黄金の時間の大河を見ながら語る次の言葉に答えがある。「時間とは、僕たちが輝きを増してゆくための愛の大河だったんだ。」「私たちの時間の旅は、この大きな愛に導かれていたのね。」そう、タイムマシンが、ストーリーに都合よく、偶然故障したのではない。マホメットや神道の神々が、釈尊や過去仏ヘルメスなどの仏の指導を受けたと大川隆法著作集では語られていないためか、神道やイスラム教世界に二人が導かれることもない。起こる事件が偶然なのではなく、二人の思いつきも気まぐれなのではなく、すべてが彼らの主である仏の愛に導かれての旅だったらしい。それにしても将来、スフィンクスの鼻を落としたのはタイムマシンであると信じて異説を認めない「信者」は、この映画を機に出てくるだろうか? 将来はわからないが、そんな愚かな原理主義から程遠いことが、現在の幸福の科学の美点であることも追記する。