【徴用と】 第80回「バカの壁・再」68(その1) 【官斡旋】
第80回「バカの壁・再」68(その1)~嗚呼!関釜連絡船~徴用朝鮮人遺骨 旧麻生鉱業の資料を韓国が要求(6日の日記) 2005年12月06日 20時39分48秒 (佐原の日記)戦時中の勤労動員で朝鮮半島から日本へやってきて、過酷な環境条件で重労働を強いられ亡くなった朝鮮半島出身者はかなりの数にのぼるらしい。我が国と韓国は40年前に国交を正常化する際に、植民地支配に対する補償問題も話し合われ政府間では済んでしまった問題であるが、細部ではまだ未解決で残っている問題もあり、徴用朝鮮人遺骨問題もその一つです。記事は次のように述べています;(略)植民地統治時代に起きた朝鮮半島出身者の被害については、わが国政府は誠意を持って調査と報告を行うべきだと思います。未来志向で協力していくためにも、私たちは過去にあった事実は知っておくべきです。■さて、>我が国と韓国は40年前に国交を正常化する際に、植民地支配に対する補償問題も話し合われ政府間では済んでしまった問題であるが、細部ではまだ未解決で残っている問題もあり、徴用朝鮮人遺骨問題もその一つです。取り敢えず、補償問題と遺骨問題は別の話と言うことを理解していないわけですが、彼も言っているように日韓国交回復時に「日韓基本条約」と同時に以下のような協定が締結されました。・財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(日韓請求権並びに経済協力協定) ・日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定(在日韓国人の法的地位協定) ・日本国と大韓民国との間の漁業に関する協定(日韓漁業協定) ・文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定 ・日韓紛争解決交換公文 今回問題になるのは「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」-通称日韓請求権並びに経済協力協定-ですが、これの第二条にはこう書いてあります。財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(データベース『世界と日本』)第二条1 両締約国は,両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産,権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が,千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて,完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。■と言うことで、日韓間の財産・権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題は完全かつ最終的に解決されたと言うことになります。で、これとはまた別に徴用者遺骨問題があります。朝鮮人の遺骨と言えばよく言われる東京佑天寺に保管されている遺骨については「在韓軍人軍属裁判を支援する会」-これもまぁアレな団体なので主張の信憑性に疑問はありますが数字は旧厚生省資料から拾っているようなので確かそうです-によれば徴用者ではなく軍人軍属等であり陸軍658柱、海軍427柱、軍人軍属以外の浮島丸犠牲者50柱の合計1,136柱だそうです。ちなみに軍人軍属については・1948(昭和23)年2月3日に4,597柱 1947(昭和22)年2月26日にGHQの指令で遺族が韓国に居住する者の遺骨にだけ限定。 韓国釜山にあった朝鮮過渡政府の外務部釜山連絡事務所に引渡し。・1948(昭和23)年5月31日に3,046柱 陸軍936名、海軍341名分、釜山にあった臨時政府の日本課に引渡し。 尚、1,277名分はG.H.Qの不承認で送還されず。の二回で7,643柱の引き渡しが行われておりますが、両方とも引き渡したその後の処理は分らないそうで。ある程度きちんとした記録が残っている軍人軍属のような場合はともかく、民間企業で働いていた朝鮮人労働者-徴用ではなく自由意志による労働-の場合は国が把握するのは不可能に近いでしょう、国家にしても企業にしても組織の通例として時間の経過と共に資料が散逸するものですから完全把握は難しいのではないでしょうか。そもそも朝鮮人徴用者というのは「国家総動員法(昭和13年法律第55号)」第四条、第六条に基づき、「国民職業能力申告令(昭和14年勅令第5号)」による申告者を「国民徴用令(昭和14年勅令第451号)」によってなされる「国民の徴用」であり「強制連行」ではありません。ちょう‐よう【徴用】国家が国民を強制的に動員して一定の業務(兵役を除く)に従事させること。また、物品などを強制的に取り立てて使用すること。◇日本では一九三八(昭和一三)年に国家総動員法が制定され、国民徴用令・船員徴用令などが発布された。■帝国臣民-日本国民-であれば否応なく徴用されるわけであり、朝鮮人と日本人の間に差は殆どありません。唯一の差は国民徴用令による徴用が朝鮮に適用されたのは1944(昭和19)年9月でした。ですので「強制連行」の根拠とされている「徴用」による徴集と言うのは1944(昭和19)年9月から関釜連絡船がほぼ途絶状態に陥る1945(昭和20)年7月までの10ヶ月でしかないわけです。昭和14年9月 一般募集 昭和17年3月 官斡旋 昭和19年3月 徴用 *強制力を持つのは徴用から、拒否した場合は1年以下の懲役なお、「日韓2000年の真実」名越二荒之助著によれば>また、同年の国民徴用令の公布をもって朝鮮人『強制連行』の起源と誤解している著作が多数見受けられるが(朝鮮人強制連行真相調査団「強制連行、強制労働の記録」、朴在一「在日朝鮮人に関する総合調査研究」等)、国民徴用令が朝鮮人にも適用されたのは昭和19年9月のことであり、厳密に言えば朝鮮人の徴用が行なわれた期間は昭和19年9月から関釜連絡船の閉鎖された昭和20年3月までの6ヶ月間に過ぎない。と言う記述があり、様々なところで「関釜連絡船の閉鎖された昭和20年3月」と言う部分が孫引用されていますがこれは事実ではなく、「商船戦記」大内健二著の「戦時下の関釜高速連絡船物語」によれば1945(昭和20)年3月27日の米軍B-29による1000発の夜間機雷投下にも係わらず同年6~7月まで関釜航路は維持されていたようです。ちなみに1942(昭和17)年現在の関釜航路は・景福丸型客船「景福丸」「徳寿丸」「昌慶丸」・高麗丸型貨物船「高麗丸」「新羅丸」・金剛丸型客船「金剛丸」「興安丸」・壱岐丸型貨物船「壱岐丸」「対馬丸」・天山丸型客船「天山丸」「崑崙丸」の客船7隻、貨物船4隻の合わせて11隻が関釜航路を行き来していました。現に同年4月1日には下関港を出港した関釜連絡船「興安丸」が玄界灘で触雷し中破、5日には貨物便の「壱岐丸」が触雷し航行不能となり下関港は危険と判断され関釜連絡船の日本側発着場所を下関から博多に移しましたが、関釜連絡船は青函・稚泊-ちはく-連絡船と共に日本の大動脈として、また大陸からの人員・物資輸送路として維持されていました。しかし、そんな必死の努力にもかかわらず5月25日には「新羅丸」が関門海峡で機雷に触れて沈没、翌々日の27日には釜山発博多行の「金剛丸」が博多湾で触雷し沈没を防ぐために付近海岸に座礁-浮揚、修理完了は終戦後-、6月12日には関門航路の「下関丸」が触雷沈没し、米軍により約5000発もの機雷が敷設された関門海域はこれら連絡船以外にも5000~1万トン級の大型船が約150隻、5000トン以下の船をあわせると約350隻近く船が触雷沈没しマストの林立する関門海峡一帯はさながらは「船の墓場」と化した。で、同年7月に入ると状況はさらに悪化しまず青函連絡船が同月14日の米機動部隊艦載機による津軽海峡方面空襲により青函連絡船全12隻中沈没8隻、擱坐炎上2隻、大破航行不能2隻と言う大損害を受け航行可能な連絡船は一隻もなく文字通り壊滅-詳しくは「青函連絡船と津軽海峡・第四章 全滅~青函連絡船の戦時輸送と復興」を参照-する。そして同月28日には島根県大泊港近くの黒田湾に仮泊していた天山丸が米艦載機の空襲を受け翌々日の30日に沈没、この時点で触雷した金剛丸は沈没状態であり健在なのは興安丸一隻のみで関釜航路は事実上途絶します。ちなみに稚泊連絡船は終戦直前まで細々と運行されていましたが1945(昭和20)年8月9日ソ連侵攻に伴い緊急輸送に切り替えられ、同年8月24日の「宗谷丸」による輸送-ソ連軍の海上航行禁止命令下、定員の6倍近い約4500名の避難民を乗せ客室はもちろんすべての甲板上も船倉内も足の踏み場もない状態の“決死輸送”であったそうです-を最後に航路消滅と相成りました。で、いつもの如くどうでもいい方向に話はそれてその2へ続く。