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女性のジーンズが細くなっているのではないか。以前に、下半身をかくすための土管という趣のデニムが流行したことがあった。いまのジーンズは体の線をむしろ強調するようにつくられている。だからわたしなどは目のやり場に迷うことがない(オイ)。ただちょっといまいましいのは、かの女らの足の長さである。ジーンズの女性と並ぶと、その足の付け根がわたしの臍のあたりにくるような気がする。そのころテキの臍はわたしの肩の附近にあって、しきりに茶を沸かしているのにちがいない。しゃくだから、3歩さがって影もふまない。
おもえば、畳に正座して飯を食ってきたのだ、われわれは。学校でよく受けた罰も廊下での正座だった。あれもこれも、成長期に足まで栄養がまわらなかった原因となったのである。もうとりかえしがつかない。バスは出たあとだ。くやしいね。 年若の友人に中学の卒業アルバムをみせたことがある。 ―どの人が好きだったんですか 頁を繰って指し示した。10人ほど。 ―へえ、茫茫さんは外見にはこだわらない人なんですね ……。 かの女らは当時の我が校のベストテンだった。 では、足のみならず、頭部、ことに鼻とか目のあたりにも栄養が行き届いてなかったのであるか。 話はそれるが、この友人の美の基準もじつはすこしヘンなのだな。たとえば、浜崎あゆみなんて女性を綺麗だという。美人かね、あのひと。おぞましいとまでは言わぬけれども(浜崎さんゴメンナサイ)。 小学校は給食がでたが、中学にはいると弁当持参になる。いまもそうなのだろうか。 わたしの弁当はご飯に開きの鰯が一枚という組み合わせが多かった。これを蓋でかくしながら大急ぎで食べる。級友の、赤いウィンナーに玉子焼き、とりどりの野菜という弁当がうらやましくてしかたがなかった。 向田邦子に、小学校の遠足先で弁当を開いたとたんに泣きだした女の子を書いた一文がある。見るとその弁当にはご飯のほかに魚肉ソーセージが丸ごと1本、ごろりとはいっているきりだった、というような話だったと思う。この子の気持ちがいたいほどわかった。それにしてもひどい親がいたもんだが。 むかし、兄の中学の体育祭に弁当を届けたことがあった。わたしのと二人分である。体操着の兄は運動場の隅にわたしを連れて行き、おかずを点検した。折には、赤いウィンナーに玉子焼き、ほうれん草のおひたし、千切りキャベツ、白菜の漬物、それに甘い金時豆まで詰められていた。 兄は ―おれはおかずだけでいい。飯はおまえにやるからどこかで食え と、二人分のおかずを持って走り去るのである。兄というより鬼だな。もっとも、ふだんのかれは、おかずは一品のみという弁当を隠れるように食べていたに違いない。後年のわたしのように。 ご飯の折り詰めをかかえてわたしは途方にくれた。空腹だったが、ご飯だけを食べる気にはなれない。けっきょく、どぶ川に捨てたのだが、これをおとなが見咎めた。 ―米を粗末にすると罰があたるぞ とわたしをにらむのである。これにどう答えたか記憶にない。いまのわたしならそうするように ―よけいなお世話というものだ。なにも知らないくせに今朝の日めくりから拾ってきたような科白をはくもんじゃないぜ、きみ と鼻を鳴らしてみせたとも思えないのだが。 その気になれば、いまはたいていのものを口にできる。あのころの敵討ちのように食べる。だが、わたしにとっての最大のごちそうは、むかし運動場の隅でちらりと目にしただけでついに口にできなかった、あのおかずだったような気がする。食い物の恨みと栄養は尾を引くのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006.05.10 19:19:38
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