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午睡の夢は破られた。不規則な波動が水中に満ちて、眠っていた女の神経をそよがせたのである。半身を起した女の耳に、くぐもった声が聞えた。地上でヒトが泣いているらしい。女は顔をしかめた。
―またか みまわすと、はたして5メートルほどさきの湖底に、鉄片を泥に突っ込んだ斧があった。その柄が水蛇のように揺れている。湖畔の樫木を伐っていた樵が手を滑らせたのである。 ほうっておくわけにはいかなかった。そうしたら湖に飛び込んできた樵がいたのだ。女はのろのろと寝台を離れ、斧を引き抜いた。黄金の斧も持った。黄金でこしらえた斧を与えた樵が二度と森に現れないことを、女は経験で知っていたのである。二丁の斧を持って女は水上に出た。水辺に初老の男が座り込んでいた。とつぜんあらわれた女を、口をあけてみあげている。苔むしたようなその舌が、女には未知の生き物に見えた。 ―なにを嘆いておいでじゃ 声をかけられて男はわれにかえった。 ―斧、命より大切な斧を落しちまっただよ ―それはこの斧かえ 女は黄金の斧をみせた。すると意外なことに、男は首を振るのである。 ―うんにゃ、そりゃおらの斧じゃねえ 女はちいさく舌打ちした。 ―じゃあ、これかい 鉄の斧をだすと男は狂喜した。 ―それだ!それですだよ!ああ、かみさま 斧を受け取った男は繰り返し頭をさげ、昼飯にもってきた握り飯を女におしつけて、なにやらうなづきながらひきあげるのである。男は明日からもここへ来る気に違いなかった。 女は握り飯を湖に投げ込んだ。無数の小魚で水面がひとしきりざわついた。 まったくのところ、素朴ってやつほど始末に困るものはないね。寝台にもどると、女はひとりごちた。 湖ではさまざまな事件がおこった。ときに身投げするヒトもある。女はこれを助けない。死体は黒いおたまじゃくしに変えた。そうすれば水が汚れることはないし、やがて蛙になって出ていくのである。 湖底の女がことさらに冷酷だったわけではない。女は、地上では自分が曲がった釘ほどにも役に立たないことを知っていたし、また、ヒトが水中に長くはとどまれないことも理解していたのである。諦念というものはしばしば、冷酷な外観を装うものだ。 湖のそばに、森を貫いてちいさな道があった。樵や、町への近道として森を抜けるヒトがつけた道である。月に一度、重い荷を背にしてこの道を往復する驢馬がいた。かれはいつも渇いていた。湖には水があることを知っていたが、立ち寄ることなど考えもしなかった。かれは自分を、足と尻尾のついた荷物のように思いなしていたのである。 わたしはいずれ倒れるだろう。そのときもヒトは、わたしが来ないとは考えず、荷物が届かないと首を傾げるに違いないのだ。だがそれでいい…。 ある日のこと。歩きながら、驢馬はいつになく自分を軽やかなものに感じた。翼をもつという天馬に、自分がなったように思えた。じつはその日はかれの背に荷物がなかっただけなのであったが。 湖がちかづいた。かれは渇きを意識した。 湖の水を飲んでみよう。わたしはところを得なかった天馬である。水を飲むのは権利というものだ。いや、義務ですらある。 かれは湖のほとりに立った。湖は深い藍色にしずんでいる。前脚をひろげてふんばり、湖面に顔をちかづけた。湖面に自分の顔が映った瞬間、かれはぎゃっとのけぞった。ついでに足をすべらせ、尻から湖に落ちた。ようやく岸に這い上がった驢馬の口からおたまじゃくしがとびだした。 女は湖底に眠っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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