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開高健がどこかに書いていたと思うのだが、ダイヤモンドを砕く方法である。それぞれのダイヤには「眼」ともいうべき一点があるという。そこに衝撃を与えれば、いかなダイヤモンドも玄武岩のごとく砕ける。
こぶし大の原石をおもむろにとりあげた名人はこれを掌にころがしながら、凝視する。動きがとまる。原石をテーブルにそっと置く。ポンチの先端を原石のある一点にあてた名人は、やにわにトンカチをふりおろすのである。 クロスワードパズルにも似たところがある。どうしても解けなかった欄を埋めたとたん、すべての空白が満たされてしまうというような、一語…。 昨夜、そのような体験をした。もやもやしていたものが、あることばを眼にしたとき、瞬時にはっきりしたのである。互いに関わっているはずだのにバラバラであった事象がひとつになった。断片はようやく全体を構成したのである。 そうしてわたしはどうなったか。砕かれたのだ。大気がしぼんだ。雲は痩せた。どうやら秋がくるのである。 知らないほうが幸福なこともある。しばしば、ある。なまじ知ってしまったがために覚える哀しみを「知恵の哀しみ」というのである。 モヤモヤした書きようで申し訳ない。わたしはまだ、これを砕く「眼」を発見できずにいる。 だが、わたしの手中に残されたものの輪郭ははっきりとみえている。であれば、砕けずとも、あの深遠な無である青空に放り上げて背を向けることもできようというものだ。いずれ。 秋風や模様のちがふ皿二つ 原 石鼎(せきてい) 暑気に炙られ、エアコンに嬲られて体はたいてい憮然としているはずなのに、痩せないのはどうしたわけか。さらに憂きことのみぞ多かりしというのに。 ふむ。ま、よろしかろ。わたしは立っている。わたしは案山子である。もとより藁束なのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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