●●●クジラにのみ込まれた瞬間●●●
このごろつくづく大量消費の時代は終わったなあと思う。金太郎飴のような大型ショッピングセンターには、どこに行っても同じような店が入り同じようなディスプレーで同じような商品が大量に並ぶ状況だ。広い店中の隅から隅までよくも商品が埋まるなあと関心するが、本当に欲しいものはない。これから必要なものは”個”だと思う。唯一のもの。そこでしか手に入らないもの。みんなといっしょの時代は終わったのだ。さて、そこでだ。想像してみてほしい。横浜の港町にカジノが必要なのだろうか?その昔、LAに住む計画があった。だんなの友達がLAにいたので、その人を頼って下見のために遊びに行った。ところがその当時、新婚であったその人は、週末ともなると何百キロもあるラスベガスまで車を走らせる。私たち家族も同行したのだが、行けども行けども砂漠のような道が続く。辺りにはなにもない。ロッキーマウンテンが遥か遠くに見えたことを記憶している。ただひたすら道は続く。さて何時間車を走らせただろう。もううんざりしたころにようやく明かりが見えて来た。そこだけが異様に輝く。イルミネーションに彩られてその空間だけが別世界だ。ああ、これがラスベガスか!と私のテンションは上がった。初めて見るようなこの煌びやかな世界は、なにかに似ている。そうだ。それもまたLAだった。20歳で見たディズニーランドのエレクトリカルパレードだ。そう、私はこの時に魔法にかけられたのだ。それからどれだけ東京ディズニーランドに行ったことか・・・(今ではすっかり魔法がとけてしまったけど)しかしながら、うちのだんなは宗教上賭け事ができない。あまり宗教ということに縛られてなかったその当時でさえ一度たりとも遊技に近づかなかった。まだ小学生だった息子(おそらく)は線が引かれたスロットの内側には入れない。だから、だんなはずっと息子の手をひいて屋外で催されているミュージカルを見ていた。となると、自ずと私だけがスロットに座ることになる。私は勝ったのか負けたのか覚えていない。そんなに大きな額をかけなかったからかもしれない。楽しかったかと問われれば、私には合わなかったということだ。これはパチンコしかり。だんなの友達は、着くや否や、お気に入りの遊技に行ってしまった。新婦はそのような毎週末を送っていたのだ。数時間経って、その人はいくら勝ったといった。そう、人は勝ったことしかいわない。決して負けたことは人にはいわない。私がわかったことは私たち家族はLAに行くべきではないということだ。何百キロ離れていようと、魔物に取り付かれている人には、その距離は問題でない。それぐらい恐ろしいものなのだ。人は自分が不幸になるとわかっていても、それに抗えない弱い部分がある。一度取り付かれるとだれにも止められない。破滅するとわかっていても。そんな場所が本当に必要か?もうすでに5カ所も候補地があがっている。ただただ愚かだなと思う。が、浜のドンはすんでのところで気がついた一筋縄ではいかないだろうね。署名しかり、選挙しかり、辺野古と同じ運命だ。国民の意志はまったく反映されない。