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カテゴリ:芸術活動について
2006年10月19日発行号公開
ブルーシャ西村のエッセイ「強引ぐ マイ ウェイ」 vol.81 06/10/19 (木) 発行 皆様、こんにちは。お元気ですか? ニューヨークは、秋になり、とても過ごしやすい季節で気持ちがいいです。 さて、前回のメルマガで、アーティスト&作家としてメッセージを公に発信するために、私は人生の前半でその土台となる教養を身に付けるために様々な分野の勉強を長く長く積む人生設計をしてきたということと、哲学者のレオ・バスカーリアが生涯でたった一冊だけ作った絵本で「葉っぱのフレディー」という名作を残した、そういう厳選した作品だけを残すという生き方のほうが好きだ、というお話しを書きました。 それに対して、いくつかお便りを頂きました。身近な人からの感想もありました。私の、芸術家として生きる真摯な姿勢に共感する人が多いので、ありがたいことだと思いました。 「ものを書いたり作品を作り出すために、そこまで真摯に土台作りにとりくんで色々勉強しているなんて驚きました。ぜひそういう人が書いた本こそ読みたいです。本が出たら、ぜひメルマガで知らせてください」 「アーティストになるからこそ、経済学部で勉強したということは、とても正しいとおもいます。人々にメッセージを発信するのですからね!」 「ブルーシャさんが経済を学んだというバックボーンがあることは、芸術家としてとても正しいですよ。ゲーテに似ていますね!彼は、法学部だし政治にも関わっていたうえに、歴史に残る名作をたくさん残しましたから。色彩論も残しているから、ゲーテは本当にすごい芸術家ですよ」 などなど。「ゲーテに似ている」だなんて、“おありがとうございます”。恐れ多いですが、大変光栄です。ゲーテのように歴史に残るようないい作品を生み出せるかどうかはまだ分かりませんが、私の目指す方向と作品に対する取り組み方の姿勢は、ゲーテによく似ています。人々のためになるようないい作品を生み出そうと思ったら、自然と、「学んで土台となる教養を身に付けよう」という意識になってしまうものなのです。 (ゲーテ:ドイツの裕福な家庭に生まれ、法律を学びヴァイマール公国の宰相を務めた。詩人、劇作家、哲学者として多くの作品を残し、晩年は色彩学に没頭した。ヴァイマール公公国枢密顧問官・政務長官 (1749-1832).) ただ単に、頭の中身が無いうちから一生懸命毎日作品を書こうとしたって、何も出てこないのは当たり前です。そんな姿勢で作品を公に発表したら、お金を払って買う人に失礼ですね。中身が無いのに一生懸命やっても、果てしなく無駄が広がっていくばかりです。 作家とか芸術家は、一生懸命に毎日作品を作り続けるということよりも、中身である教養を積み上げてから、作品数は少なくてもいいので厳選して名作を残す努力をするほうが、読者など人々のことを尊重しているのです。人々のために書こうとしている、いい作品を作ろうとしているという姿勢のほうが重要です。その反対に、ご飯を食べるために職業として続けて、駄作でもいいから毎日一生懸命たくさんの作品を作るという姿勢は、人々を尊重していないと私は感じます。 ゲーテなんて、ファウストを”60年”かかって書き上げたそうだし、色彩論は晩年になってから取り組み始めたことだそうです。それこそが、芸術家の生き方の鏡です。 芸術家として生きるという道は、「芸術家道」とでも言い換えられることで、他の職業のように、サラリーマンとして生きる生き方とは、全く性質が違うものです。「道」ですね。「茶道」や「武道」と同じようなものです。 会社勤めは、お金をもらって自分の受け持つ与えられた仕事を会社の中で毎日こなしていくことですが、芸術家や作家は、普段生活に追われて考える時間や余裕のない人々の代わりにじっくり哲学して学んだことを、作品に表現して社会に還元していく役割です。 考える時間や余裕がない人々や、何かにつまづいて迷える人々や、立ち直るヒントを探しに本を手に取る人々などに向けて、何か新しい視点や解決方法、生きる意味やきっかけになるようなヒントになるようなものを人々の代わりに作品として送るのが芸術家の仕事です。 人の何倍も勉強し続けて土台となる教養がなければ、人々のヒントになるようなメッセージを送ることは決してできないと、私は思っています。教養が無いのに文章を書くなんて姿勢は、なめた姿勢で、読者のことを尊重していないとしか考えられません。 私は、最初から、子供の頃から一貫して、芸術家になりたかったので、上に書いたようなそういうことを色々考えて努力し続けてきました。言っていることとやっていることは、幼少時からずっと一貫し続けています。霊感のせいもあって、霊感で一瞬にして本質を見抜いてしまうので、迷いがないのです。いつも一貫しています。ブレません。 そして、宇宙の法則に沿って、霊的にどれが正しくてどれが間違っているか一瞬で分かってしまうので、いつまで経っても一貫して揺らぎません。 霊感が無くて道につまづいて迷っている人々に、きっかけになるヒントとして、「どれが正しくてどれが間違っているのか」という内容を、工夫してオブラートにくるんで書いていきたいと計画しています。見抜いた本質を、分かりやすく文章化して、コンスタントに本として出版していこうと思っています。それこそが、他の作家には出来ない、私にできるお役目だと理解しています。 メルマガは、読者の反応がリアルタイムで返ってくるので、ご意見がとても参考になります。私も、その度に、書き方を考え直したり、どこまで書いていいのか検討し続けるきっかけになっています。どのくらいまでの内容なら書いてもいいのかということは、その一線を決めるのは微妙なテーマです。今までも賛否両論ありましたが、このメルマガは、題名が題名なので、できるだけ本音を書こうと努力してきました。 特に一般的な意見とは違うこと、何か人と違った意見を書くと、賛成と反対と、ものすごい反応が返ってくるものです。かといって、波風立てないように考えてから文章を書くと、当たり障りの無い、毒にも薬にもならないような、他の人でも代わりに書ける程度の内容の文章や、まるで道徳の先生のような文章しかでてきません。それなら、私が書かなくてもいいということになります。ジレンマですね。 心の師として仰いでいる詩人&芸術家のジャン・コクトーは、晩年に、 「人生で、書くことができないことを書かなさすぎて、書かなければならないことを書きすぎたことを、今、とても後悔している」というような内容の文章を書き残しています。 これは、今になって、私も彼の気持ちがよく分かりかけてきました。彼自身も、作家で芸術家だったので、読者のことを想像すると、どこまで書いていいのかどうか、その一線を考えて左右されたことがあったはずです。 このメルマガは2年続けてきましたし、七福神の音楽を制作する前から最中、その後のお話まで、リアルタイムで書いて、記録になりました。霊的なことも混ぜて書いたので、本音をつづって、率直に意見を述べてきました。 それが、良かったのかどうだか、ジャン・コクトーのようにふと考え直したりしていた矢先、最近になって、私の1冊目の本を絶賛してくださっている名編集者やその周りの人達が、この過去のメルマガを大絶賛しています。本当に、私にとっては予想外で、びっくりしていまいました。こんな独我論を、一般的ではない意見を、プロ中のプロが絶賛するなんて、意外でした。 「構えず自然体で語っているのがとてもいい印象を持ちました。」とか、 「文章、内容、本当にその通りであり素晴らしいの一言です。揺らぎがなく、深みもあり、感心いたしました。このままでも出版できるレベルです。」 などです。 これは、本当に予想外でしたので、驚いています。 あれ?今まで周りでメルマガの書き方に反対していた人達は、あれは一体、何だったのだろう?と思いました。 率直に意見を述べるということは、自然体ということですものね。その自然体なままでいいのか、それをオブラートにくるんで一般に受けるようにしたほうがいいのか、どっちも、それぞれ受け入れることができる人と出来ない人に分かれるようですね。 自然体に書いてきて、色々な反応があり、反対して離れていく人もいたし、絶賛して熱狂的な読者もでてきました。でも今、こうやって、素晴らしい名編集者たちに出会うことが出来て、ここ数ヶ月で、私の周りで出入りする人の種類がガラッと変わっていったので、今、私の運気(?)か霊的レベルが向上してきているのを体で感じています。私自身が成長して、私の運気と霊体が急にアップして変わってきたという証拠です。出会う人達の種類がさらにレベルが高い人達に変わってきました。人生が面白くなってきました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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