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カテゴリ:不幸の予防方法
さて、お客様からのお便りの一部分を掲載します。
新約聖書の、ヨハネの福音書についてです。 ありがとうございます。 こちらこそ、これからもよろしくお願いいたします☆ >「ノアの方舟のようだなと思いました。 ・・・ ヨハネの福音書3:19〜21を読んで、最近のブログに書かれている内容みたいだ…と思いました。 やはり預言されていたのですね。 ブルーシャさんとのご縁をいただけて本当に本当に感謝しました。 ありがとうございます。 これからもよろしくお願いいたします。」 (以下、ブルーシャ記す) wikisourceより、転載します。 「ヨハネによる福音書」(口語訳)から抜粋。 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。 また言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。 よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。 わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。 天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。 上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。 彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない。 しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。 神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。 また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。 世はあなたがたを憎み得ないが、わたしを憎んでいる。わたしが世のおこないの悪いことを、あかししているからである。 もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。 しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう。 「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。 光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。 わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。 たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。 わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。 わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。 わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年03月30日 14時20分05秒
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