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2020年08月09日
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カテゴリ:読者のお便り
昔、私はスペインでの学生時代とニューヨークに引っ越してからジュエリーを学んでいた初期の頃まで、数年間だけ、手相鑑定とタロット鑑定をアルバイト代わりにしていた時期がありました。


私は子供の頃から、他人に占いをしてもらうのが嫌いで、「自分のことは自分で知りたいし予測したいし、自分で選びたい!」という独立心が強かったため、自分で自分の手相を読んで運命を予測したり、自分で自分のタロット鑑定をして予測して調べたり、自分で自分の四柱推命を調べたりしていました。
私は精神が自立しているので、他人に頼らない性格だったため、自然に手相鑑定を自分で出来ていました。


「他人に頼らないで、自分で全て考えて自分で決める」という意識は、私が子供の頃からいつも持っていました。
それが原因で、自分で自分の手相を読んで自分で全部決めて人生を進むということになっていきました。
その過程で、自分で自分の手相鑑定が出来るようになり、そのスキルも自然に身についていました。


それで、手相鑑定が出来るので、スペインでたまに、やりたい時だけアルバイトとして手相鑑定とタロット鑑定をするようになっていきました。
でも、意識では「手相鑑定やタロット鑑定、占い師は私の役割ではない、私の仕事ではないから、学生時代だけ一時的にアルバイトでやるだけにしておきたい。」「私の役割、生業はアーティストだから。」という本能的な直観が強くありましたので、鑑定にお客さんがわっとたくさん来ても、「本日は10人まで」とか決めて、その数が終わったらそそくさとたたんで帰っていたほどでした。
そのくらい、観る数を少なく、最低限の必要な収入だけしか占いで稼がないようにコントロールして、少なく押さえておいていました。
とにかく、最低限だけ収入ができたらストップして、あまり稼ぎすぎないようにしていました。
アート関連でだけ収入を得られるようにすることを努力の方向性としていつも心がけて努力を続けていて、手相鑑定は学生時代だけアルバイトでするのみにとどめておきました。


スペイン時代は、岸壁にある地中海が見渡せる高級なバー&レストランで手相鑑定を夏に少ししていたら、その時は私のヘアスタイルは地毛でアフロだったので(笑)、そのような巨大なアフロヘアーで顔が日本人で色白で背が高くて大きいのですごく目立っていて、しばらくしてスペインで当時一番有名なDJに話しかけられて、それがきっかけでDJとしてスカウトされたのでした。(身長が高くて、ハイヒールを履いて、アフロで巨大なヘアーだったら、ものすごく大きかったです(笑)。)
(アフロは、日本に帰国時に、地毛にパーマをかけて、スペインへ帰りました。ちなみにアフロのパーマは4時間半かかりました。)
その話は過去に書いたことがありました。


この時、DJとしてスカウトされた理由は「アフロだし存在が目立ったから!」でした。

その時にその有名なDJに話しかけられた理由は、「アフロの日本人女性が手相鑑定をやっている」からでした。

最初は、「新しいクラブのオープニングに、ゲストDJをしてもらいたい」スカウトされました。


その時までに、すでに子供の頃からジャズと洋楽が大好きで、10年かけて少しずつ私の音楽のレコードのレア盤コレクションが大量になっていて、200枚くらいはあった状態でした。
そのレア盤をたくさんスペインへ持っていってあり、趣味として自宅で一人で(笑)毎日かけて踊ってトリップしていたのでした(笑)。
マラカスとかトライアングルとかタンバリンとか、小さなパーカッションもいくつか持っていて、それを音楽に合わせて鳴らしながら踊っていました。一人で(笑)。・・・これが留学中の学生時代の趣味で、音楽は必需品で、無いと生きていけないです。
私にとって、音楽はこのように日常生活の中で必要なもので、無いと生きていけないので、音楽の無い生活なんて無理で、音楽にいつもエネルギーをもらえて楽しくトリップして暮らしていけました。音楽にすごく救われてきました。


そういうわけで、音楽の中毒である私は、子供の頃からすでに上記のように、いつでもDJとして働ける準備が自然に出来ていたわけです。

別に意図していたわけではなかったですし、DJになりたいと考えて音源を集めていたわけではなかったですが、すでにその時点で、なかなか私の音楽の選曲の真似出来る人がいない究極のレベルまで達していたから、DJになる準備が出来ていました。


まず、オープニングアクトとして、有名なDJの前座で私がDJをやったのですが、自前の音源をだ~っと2時間くらいかけたら、そのDJは私の選曲の質にビックリ仰天して、
「来週から、ぜひ、毎週DJをして下さい!」と私に頼んできて、それから毎週プレイするレジデントDJになりました。

「一体、いつどこで、そんな音楽を集めたの?その曲は誰も持っていないよ!聴いたこともない!誰も持っていない曲をあなたはたくさん持っているなんて、すごいね!」などと、そのDJに言われましたが、
「私は子供の頃からずっとオルガンを学んでいたから、ジャズとか音楽が好きだから、長い間かけて少しずつ音源を集めていたから、時間かかっているから、誰も私に追いつけないよ~」と言いました。

その私の子供の頃からの好きな音楽に対する情熱と努力のお陰で、いつの間にか自然にDJが出来ていました。


上司のそのDJから、ハウス・ミュージックのDJのやり方も教えてもらい、時々、ハウスもかけたことがありました。ハウスは、切れ目無くレコードをつないて鳴らしていく作業です。

そして私はクラブとディスコのDJになり、現地で人気が出て、当時、地元の新聞、雑誌、ラジオ、テレビにも取材されて出たほどでした。
私がDJをするパーティーの日もありました。
現地で、ピチカート・ファイブの小西さんが招聘されてDJとしてプレイなさった時も、私はその前座のDJとしてプレイしました。

・・・この状態は、まるで神から仕組まれたかのようによく出来上がっていたストーリーだったので、幼少時からオルガンを学んだこと、音楽好き、ダンス好き、音源コレクション、アフロ、手相鑑定、DJへと、点と点が全てつながって線になっていました。

この時は、アフロも手相鑑定も全て、DJにスカウトされるきっかけとなったので、何事も偶然は無いのだなと思いました。

もしあの時、親とかから留学費用を援助してもらえていたら、
もし手相鑑定で稼がなくて済んでいたら、
もしアフロにしていなかったら・・・DJにスカウトされることはなかったのです。

・・・親に留学を理解してもらえず留学費用は一切出してもらわず、自分のお金で留学しなければならなかったことが、手相鑑定のアルバイトをする原因になったので、「災い転じて福となす」を地で行きました!


・・・このように、私の人生にとって、手相鑑定は、自分の運命を読むことにも役に立ちましたし、学生アルバイトとして時々稼ぐことも出来ましたし、DJにスカウトされたり、時には大事なツールになっていたので、感謝しています。

でも、常に、本能的に、直観で、「手相鑑定やタロット鑑定や占いは、私の役割ではないから、あまりこれで稼がないように気を付けよう。」と思っていました。強い直観でそう思っていました。

「私の役割はアーティストだから、アートを生業として仕事出来るように努力しよう。軌道に乗せるように頑張ろう。」と決心は固かったです。


2002年10月にニューヨークに引っ越してきてからしばらくの間は、アルバイトとして時々、手相鑑定とタロット鑑定もしていました。
ジュエリーを学ぶのにお金がかかりますし、ジュエリー業が軌道に乗るまでの間、2~3年だけ手相鑑定とタロット鑑定をしよう、と決めていました。
そのため、たしか、2005年頃を最後に手相鑑定もタロット鑑定も辞めて、それ以降は頼まれてもお断りして、二度と鑑定することは無くなりました。
お陰様でジュエリー業とアーティストの活動を生業として集中するようになりました。
2005年頃から、ジュエリー業を軌道に乗せることが出来てきました。


その頃の一瞬の、2002年10月~2005年の期間に鑑定したお客様達から、時々、今でもお便りご質問が届きます。
その頃のお客様のことも、ありがたく感謝していますし、懐かしいです。
「袖振り合うも他生の縁」で偶然は無いと言いますから、何かのご縁でしょう。
また、鑑定を通じて、様々なことを私も学ばせていただきました。
鑑定のアルバイトは、人生の勉強にもなりました。



さて、手相鑑定とタロット鑑定の思い出を書いていたら長くなりましたが。

その頃の、昔のお客様からお便りをいただきましたので、その一部分を掲載しますね。

ありがとうございます。


「遡ること2005年、一度だけマンハッタンで15年前にお会いし、手相を観て頂きました。

ブルーシャ西村さんに書いて頂いた紙を今でも大切に保管しています。


最近思い悩むことがあり、ふとブルーシャ西村さんのことを思い出し、鑑定して頂いた時の紙を見返すと、本当に書いて頂いたことは現実となっていることに気がつきました。


仕事か勉強を頑張る年と書かれた年齢の時には、大学院で猛勉強をしていたこと、
30歳以降、仕事の成功運が始まると書かれた年は、私がちょうどキャリアチェンジをして全く違う職種に初めて就職した年でした。

子供を産む可能性とある年に、35、37、45歳と書かれてありますが、私は35歳で第一子を出産しました。
今、私は44歳になります。
・・・・・・・・
占って頂いた時、45歳になって出産はないなぁ、と思いましたが、可能性として、実際は現実のこととなりそうで驚いております。


20代はずっと航空会社で働いておりました。お会いした時もまだ航空会社で働いていたかと思います。
勉強も好きではなかった為、30代でこの私がGmatの勉強を経てMBAで猛勉強をして卒業し、まさかCPA firmで働くことになるとは1ミリも思いもしませんでした。

何をするか選択の可能性、何か人生で転機となる年齢が重なるとは思いもしませんでした。

私は占いは信じる方ではありません。
でも、書かれてあることが現実となっております。

・・・・・・・・

私は今アメリカNJに住んでおります。
今でも占いはされていますか?もしもされているのであれば、コロナが落ち着いた時にまた占って頂きたいと思っています。
勝手に、何か見えないご縁を感じています。。。」


(以下、ブルーシャ記す)

 昔の手相鑑定のお客様からのお便り、ありがとうございます。
嬉しいです。

 鑑定したのは2005年で、15年前のことなのに、今でも私が鑑定して書いた紙を大切に持っていて下さって、私もありがたいです。

 私の手相鑑定は、誰に教わったわけでもなく、その方のアカシックレコードを自然に読み取って観ていて、節目の出来事の年齢まで正確に出てくるのです。

 そのため、その方の年齢で、だいたい65歳くらいまでの年表を大まかに書き出して、今後のアカシックレコードの未来の縮図を書いた紙をお渡ししていました。

 その頃の紙を大事に取っていらっしゃって、今でも時々、お便りをいただくことがあります。

 時間が経てば経つほど、昔の私の鑑定の紙が、年齢まで正確に出していたことが分かり、後になってお客様が驚いて「これは本物だ!」と実感して、ご連絡を下さることが多いです。

 特に、驚くのが、結婚相手に出会う年齢、結婚する年齢、子供を出産する年齢と子供の人数の予定が、全て、年齢が正確に出ているのです。

 このお客様のように、同じように、子供を出産する可能性の年齢がピタッと当たっていたということで、当時のお客様から後になってご連絡をいただくことがあります。

 中には、子供の人数と産む年齢が全てピタッと当たっていたというお客様もいらっしゃいました。

 手相は、その方の魂のアカシックレコードが凝縮されてあるまさに縮図で、それが印となっていて、解読しようと思えば全て解読できますよ。

 たまに、お客様が隠していらっしゃることまで観えてきてしまうので、言ってもらいたくないだろうなあ~とお察しして、結局は言わないで黙っていたことも多かったため、かなりストレスになるのが手相鑑定とタロット鑑定でした。
 お客様には、無難な一部分だけしか、鑑定で伝えないように、気を使っていました。

 伝える言葉もよく選んで、気を使って、オブラートに包んで伝えていました。

  
 でも、手相鑑定で、結婚する可能性のある年齢も子供を産む可能性のある年齢も、それはアカシックレコードを読み取って出した年齢ですが、結局最後にはその方の自由意志によって結婚するしないも選べるし、子供を産むかどうかも選べるので、本人の選択次第です。


 ・・・上記のようなことを、なぜ、誰にも教わらなくても自然に手相やタロットで読み取れるのか?

 これは、もし本当に霊能者なのだったら、霊能者は手相鑑定やタロット鑑定で当てることが出来て当たり前です。

 今振り返って分かることですが、その後、沖縄の霊能者の先生(お二人いて、一人目に出会った方)に、私が稀にみる強い霊能者だと指摘されて分かってきました。彼らがニューヨークに旅行でいらした時に、お会いしてアテンドで数日間一緒に過ごした時のことでした。

 でも霊能者であることを私が自分で受け入れるのが遅かったため、全く自分で気が付かないでいて自覚もなかったのですが、それで霊能者なら手相鑑定が最初から出来て的中するのは当たり前だったのだと分かります。
 もし本当に霊能者でしたら、鑑定は的中するのは当たり前ですね。それが霊能者です。

 私の転機は、この1人目の沖縄の霊能者の先生と出会ったことと、2人目の沖縄の霊能者の先生がジュエリーのお客様になってくださりご縁が深まって、その後も大量にジュエリーをご注文くださったため交流が続き、それがきっかけでジュエリーの役割を理解してきました。

(注:私とご縁があった沖縄の霊能者の先生は2人いらっしゃるので、上記の情報を時系列も含めて正確に書き直して修正しました。沖縄の霊能者の先生の2人分の情報を1人分であるかのようにまとめて書いてしまっていたので、はしょってしまって情報が正確ではなくなっていました。私のことを稀に見る霊能力者で沖縄のユタでも見たことがないと指摘なさったのは、1人目の沖縄の霊能者の先生です。2020年8月23日記す)

 霊能者の先生がお客様となってくださったことは、ご縁ですね。
 大量にご注文してくださり、周りのお知り合いにもお奨めくださってご注文が続きました。そこまで私の霊能力が高いとはそれまで気が付いていなかったことなので、この先生に、私のジュエリーが白光を放っていること、持ち主があらゆる災難から守られていること、必要なところに渡っていること、その役割や効力を教えていただいて、私のほうが驚きました。

 弁財天なので、ジュエリーが私の役割なのです。
 弁財天は音楽、芸術、踊り、文筆、学問の神様ですので、その分野のことを自然に全部やっているのです。
 ・・・もし本当に弁財天なら、手相鑑定とタロット鑑定が的中する霊能力と超能力があって当たり前ですが、それは弁財天の役割ではないですよね。これも自分の直観は、つじつまが合っていました。

 
 気をつけておくと運気が好転して目に見えないものからも守護が多くなり幸運になる内容などは、書籍で出版して全部まとめてありますので、それぞれがそれを読んで気をつけていただくことが出来るようにご用意しました。

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 私の場合は、教育を受けていますし才能を与えられているので役割がアーティストのため、その力をアーティストとして人々のために使っています。
 手相鑑定は教育を受けていなくても出来ることなので、私の役割ではないです。

 もし教育を受けていなかったとしたら、もし美術の才能が無かったとしたら、もしかして手相鑑定を生業にしていたのかもしれませんね。

 教育、才能、生業は、その人の役割を表していますね。

 ご縁を感じて下さり、お便りをありがとうございます。
感謝いたします。
 現在は手相鑑定はいたしかねますが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。





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最終更新日  2020年08月24日 05時31分30秒
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