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カテゴリ:読書
暑くて散歩に出られない日は、ときどきジュリアをベランダに出す。 日光消毒(笑)じゃないけど、冷房で血行の悪くなった体にいいのか、しばらくじっと寝そべっている。 きょうは、ペルトの<アルボス>をかけながら、開いたドアで出来た日陰に陣取って、ベンヤミンを拾い読みした。 ベンヤミンの収集した情報によると、フーリエの理想論には、幾つかの欠陥が浮かび上がってくる。 まずは、人が、その人でしか出来ない仕事とか立場に、括り付けられるように生きなければならない世界を描いていることだ。 仮に、すべての人にとって、その場所が幸せであったとしても、不幸によって感情を揺さぶられない生き方が、人間らしい幸せなのだろうか。 そして、フーリエの描く理想世界は、理想世界を成立させるために、高く延々と続く壁によって外界と隔てられているように思える。 それは、故マイケル・ジャクソンのネバーランドを彷彿とさせる。 子供達は、幼い頃から、その適性に合わせて教育を施される。しかし、その適性の分類は、社会のどの範囲までを覆い尽くせるのだろうか? 選ばれた子供達のための、特別な教育に、何も目新しいものはない。どこかにあるだろう、そんなもの。 去年、韓流に出会う前、私も少しだけ幸福論を模索したことがある。 その頃は、大昔に図書館で読んだフーリエのことは、すっかり頭から抜け落ちていたが、 世界が何らかの(例えば地球温暖化)のようなある危機を伴う変化に襲われたとき、人間は、どのような環境を幸福な世界として望むのか。 力まかせに、過去に戻ろうとするのか、技術で不足を補おうとするのか、環境に適応していくのか。 はっきりわかっていることは、どれかその一つを全人類が選ぶなんてことは有り得ないということだ。 生きることにとって大切なのは、危機的な状況に一人一人が陥らないことである。 セイフティーネットという言葉がるが、その網は、単なる制度などであってはいけないと思う。 世界を覆いつくすネット(防護網)を構成するのは、弱者を支える制度でもなく、予算でもなく、センサーのような自動機ではない。 ネットを構成するパーツのひとつひとつは、人間である。人が、他人を観察することと、観察結果をしかるべき他者に伝えることと、その情報によって、しかるべき機関の関係者が的確に対策を立て、実行する。 ただ、この一連の動作の連続である。 自分が、社会のセイフティーネットであるという自覚を持つたくさんの社会人が存在することが、安全で、安心な社会を実現させる。 そんなことは、無理だし、そんな面倒なことに関わりたくないと思う人は、 人間らしく生きること<=本来的な愛>を諦めている自分がいないか、 よく確認してみることが必要かもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年07月28日 17時38分47秒
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