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テーマ:政治について(20232)
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原爆忌にあたり、広島、長崎、ビキニ環礁で被害を受けた方々及び関係者に哀悼の意を表すとともに、現代社会への怒りを言葉にさせていただく傲慢を、被害者の皆様にお許しいただきたいと願います。
65回目の夏である。世界の多くのメディアが原爆ドームの姿を映し、核の無い世界の実現を呼びかけるはずだ。 そして、アメリカ国民の多くが、原爆投下が無かったら、太平洋戦争は終わっていなかったとつぶやくはずだ。 2009年プラハ。アメリカのオバマ大統領は、唯一の核使用国として、核兵器の廃絶に対して行動を起こす責任を表明した。 しかし、核廃絶のための話し合いのテーブルには、まだどの保有国も着席していないのが現実だろう。 第二次大戦後の各地の冷戦抑止力の名目で、各国が保有をはじめた核兵器は、冷戦構造が変化したいまも、開発、保有、破棄、または、開発、保有各段階の疑いを持つ多くの国に拡散したままの状態だ。 核兵器の破棄が何故進まないのか、今朝夫の話しに意外な言葉を聞いてはっとした。 それは、核兵器が<キャピタル>つまり<独立国家の証>として機能しているという現実だ。 経済によってグローバル化する世界と対称的に、国境を接していまも睨み合いを続ける敵国を持つ国にとって、軍事力は安全保障上不可欠だし、核兵器はその切り札ともなる。 国家間の関係の改善の保証無しに、最終兵器を簡単に破棄する国は想像できない。 彼らにとって核の傘こそが(暫定的な)安全を保証していると信じられているのだから。 核開発がほかの兵器の開発、製造、維持管理と比較して、コスト的には大変安価で技術的にも難易度が低いため、多くの紛争を抱えた国家に採用されてきた。 過去に経験した植民地化という屈辱を経て、大国と肩を並べて交渉するためにも、核保有は有利に働くと捉えられて不思議は無い。 目的を変えて、核兵器の保有は続けられる。それは、核が<キャピタル>として機能することを証明する。 誰が、どのような手段で、<資本化した核>を破棄させることができるのか。 ある日、所有していた資産が0になるということを考えてみればわかる。 それは、サブプライムショックのように、資産価値が市場によって変動する場所であったり、ある日、強盗に入られ財産のすべてと命を交換するか、或いは、どこかの国の軍隊に囲まれて、いままで持っていた権利を剥奪されるということだ。 アメリカ初の黒人大統領が、核兵器の削減をどんなに訴えようと、そのインパクトと現実との乖離は、理想をどれだけ語ろうと、埋めようが無い深い溝なのだ。 日本政府が、ばらまきODAに使った予算をもう少し有効に働かせていたら、或いは、核拡散防止のための国家機関を設け、常時、核保有国との交渉に当たることをしていたら、状況は少し改善していたかもしれない。 本来は、核兵器を開発、使用したアメリカがすべき仕事だけど、太平洋戦争の責任を果たすために、日本がその仕事を負ってもいいのではないだろうか。 声を上げても何も変わらないなら、もっと実務的に事を運ぶべきだ。 それが、政治の力ではないのか? この日本に、政治家はいないのか? そして核爆弾投下により強制的に核の実験台にされ、その<労働力>を徹底的に<搾取>され、まだその代償を得ていないのが、広島と長崎、そして唯一の被爆国である日本という共同体なのだ。(敗戦国というだけで) 自らが広島、長崎で効果を示したこの兵器の技術を、結果的に世界中にばらまいてしまった責任について、アメリカは何をもってその回答としてくれるのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年08月07日 07時34分41秒
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