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先日、2年間、対処両方(いわゆる、日和見治療)だけで肺がんと共生してきた私の父が、亡くなりました。
この夏は暑く、食欲が落ちて、血圧も下がっていたそうですが、父の希望で風呂に入れようとしたところ、意識を失いそのまま心肺停止となったそうです。 すぐに救急車を呼び、心臓は蘇生したものの、脳に血液が送られなくなった(いわゆる脳死です)ということで、まだ息があるから急いで来なくても・・・という母の言葉に逆らい、翌日帰省いたしました。 父を見舞ったとき、血圧は低いもののまだ安定しており、看護士さんたちがケアをするというので、一旦家に戻りましたが、その直後、病院から急変を知らせる連絡を受け、病院に戻ったときには父の心臓にもう鼓動は無く、死亡確認に立ち会ってから自宅に父を引き取りました。 その後、お寺さんの都合で葬儀が数日後になるというので、一旦東京に引き上げ、入院中の義母を見舞いました。(こちらも、簡単な治療の予定が1/100の確率の症状が出て長期入院に・・・) そして、葬儀の前日に実家に戻り、当日は、湯灌の儀に立会い、父の頭を洗い、足袋の紐を結び、誕生月だったので、プレゼントのヘンプ(まだ息のあるうちに手につけてあげることができていたものです)と先立った祖母への指貫を託しました。 母は、金銭的に豊かではない私達を気遣って献花はいらないというのですが、姉弟で相談して、父の写真(父が撮ったものと父が写っているもの)をデジタルフォトフレームに入れて贈りました。 葬儀の前日、葬儀社の方からもらった原稿を声を震わせながら母が読む様子を見て、参列の方々への挨拶は、私がかわってすることにしました。 家族葬ですから参列者は親戚だけでしたので、原稿は書かなかったのですが、父の最後の様子を伝え、いままで母の看病を支えてくれたことに対して感謝の気持ちを伝えることができました。 そして、火葬後、骨壷に骨を収めるときに、通院中に骨折した大腿骨を留めていたボルトを一つ形見にもらいました。これで、父が私の股関節を見守ってくれることでしょう。 しかし、この半年、過敏性大腸がひどく、この半年は父を見舞うことができなかったので、まだ父がこの世を去ったという実感が持てずにいます。 古くなった家(築七十数年)を建て直そうとしていた矢先に持ち上がった区画整理事業(両脇が空き地にもかかわらず、住人のいる我が家土地の真ん中に道路を通そうという計画でした。 その後、市の事業仕分けにより10年凍結)への苛立ちなど、父の死期を早める原因となったかもしれない事件の数々を思うと、この怒りをどう治めたらいいかもわかりません。 父の存在が、想像以上に大きかったことに驚かされ、また、父の示した指針があったからこそ、こうして自分が生きていられると感じています。 しばらくは、心の赴くままに、書き続けるしか無いと思いますが、見苦しい部分はスルーしていただいて、気長にお付き合いいただけると幸いです。 sicico@もーもーたん こと T.I. お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年09月25日 00時48分03秒
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