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レンアイという付き合い方は、
人と人の付き合い方として、非常におかしいと思うが、おかしいだろうか。 友達だったら気が合わなければなんとなく離れていく。 もしフィーリングが合えば、お互いに連絡を取り合う。 なのにレンアイとなると、基本一人だけと決めて、 始まりと終わりを区切らなければならない。 そんな窮屈な付き合い方をする必要がなぜあるのか。 例えばケッコンという形をとって一生そのまま続く場合もある。 ケッコン=死ぬまで付き合うか、ワカレ=死ぬ前に付き合いをやめるか。 レンアイには、その二者択一しかないらしい。 そんなつまらない決まり事に縛られるのなら、 最初からレンアイとして付き合わない方がずっといい。 そもそも一人だけ特別視できるのが不思議だ。 あなただけが好き、ということが理解できない。 (理解できないことが理解できない、と言われるが、そうなのだ。 十人十色で誰でもみな個性があり、誰もが自分にとって大切だ。 大切でない人などいないのだ。出会ったことのない人さえも。 地球上のあらゆる人も、空気も木々も、今このバランスで 存在しているから、私も、私の身近な人も、ここにこうしていられるのだ。 そう思うから、そのなかで、あなただけ、という存在は考えられない。 人はひとりでここにこうして笑って立っていられはしない。 だから誰もが皆重要で、支え合い、摩擦し合い、 言うべきことは言い、良いと思う生き方や在り方を求めていくのだと思う。 (例えば、選挙したり議論したり… 私は、一人だけ、あなただけが好きだ、という感情を持てない。 その逆の、誰かを嫌うという感情も持ち得ない。 (好みと苦手、はあるが… 私にとって一対一で一定時期を保つというレンアイは、 なぜそんな付き合い方をしたいと多くの人が思うのか、全くわからない。 生涯を共にしたり、家族を作ったりする相手を探しているというのなら わかるが、そうでないなら最初からその先にはワカレしかないのに。 一人でいるのがさびしいからだろうか。 自分を見つめるための、自分を癒すための存在が欲しいのだろうか。 私にはレンアイの途中や後で感じるさびしさの方が数倍、無駄にきつい。 (子どもが欲しいという理由に老後が一人ではさびしいから、という友人が いたが、それはコイビトや子どもに求めるものだろうか…? それでもレンアイは何物にも代えがたいスバラシイものなのだと、 誰かにわかりやすくスッパリ否定して欲しいと常々思うのだが、 人とこのような突っ込んだ話していて出てくる言葉は、 「レンアイしてないと楽だよね」 「ツキアウとはどういう事か、自分もよくわからなくなった」 類友なのかなんなのか、普段レンアイやケッコンに関して いわゆる一般的に感じていただろう友人も、 私の意見に同調するようなことを言う。それはそれで困る。 世の中にはこんなにレンアイが溢れていて、泣いたり笑ったり、 傷ついたり傷つけられたりしながら、皆さんツキアッテいるではないか。 そうか、世間の多くの人は強くて、私は弱いのかも知れない。 人が傷つくのも、人から傷つけられたと思ってしまうのも、 怖くて仕方がない。 とくに自分がレンアイにより受ける衝撃に関しては、とんでもなく恐ろしい。 どうしたらいいかわからなくなるほど、常識を飛び越えてしまう可能性がある。 それを知っているから、防御体制に入る。 「アナタがすきだ」「ワタシを信用してほしい」 レンアイの感覚でそう言われても、委ねることが全くできない。 疑っているわけではない。 しかしその先には必ずケッコンかワカレがあり、比率としては ワカレが大部分を占めていて、つまりあの気がおかしくなるような 感覚に襲われるのだと、それが心配で怖くて仕方がないのだ。 そのセリフを記憶に残したばっかりに生じる、あのあまりに苦い感覚。 しかし完全に頑なな意識を保ち続ける事もつまらない気がして、 もしかしたらケッコンや別の道が開けるかも知れない、 今まで見つからなかった感覚に出会えるかも知れない、と期待や欲が生じ、 押したり引いたりしながら年月を経てきた。 そして、 また、今、言葉にし難い、きつい感覚に襲われつつある。 レンアイにおいてワカレルということ。 それまでどの友人や家族よりも近いような位置にいた相手と 一緒に積み上げてきたものを、まるで否定するような状況に陥る。 それを、お互い言葉にし、行動に表し、 下手をすると周囲の知人にまで明確にしなければならない。 これが友達であったなら、つらい状況で離れることもあるが、 こんなに不必要な感情に振り回されることは少ないだろう。 知人の発言で、 シツレンはサツジンのようなひどいものだ、 自分のなかから相手を、相手のなかから自分を、抹殺するようなものだ、 というのがあったが、しっくり来ると思えた。 私は、前向きで建設的なことを選んで生きていきたい。 レンアイは前向きでも建設的でもないように思う。 人間が磨かれる、次のレンアイで経験を活かせる、という 成長の仕方はあるだろうが、成長する為だったのか、と思うのも虚しい。 また私がレンアイ苦手な理由の一つに、シットをするというのもある。 度合いも様々なのだろうが、全く気持ちのいいものではない。 しかしこれもコントロールできない感情なのだ。 ていねいに、 できるだけていねいに、 自分が傷つかないよう、相手を傷つけないよう、 防衛し防御し、意思表示し、議論し口論し、 距離を縮めたり離したりし、泣き、笑い、怒り、呆れ、 そのなかで自分も散々わがままを言い、相手のわがままも聞き、 流れとしては、 前向きに建設的にコマを進めてきたのは、現時点でほとんど納得がいく。 しかし、 着地は同じようなところかも知れない。 まだ、もしかしたら新たに開く扉があるかも知れない。 まだ、真っ直ぐ立ってそう思えるわずかな余裕がなくはない。 しかし、 もうじき、そのわずかな余裕もなくなりそうだ。 レンアイという繋がりへの疑問や嫌悪が、 確固たるものとして自分のなかに落ち着きそうだ。 それもあまり良さそうでもない気がして、 ひとまずこの絡まった状況から無理にでも抜け出す計画を立てる。 ちょうどタイミングが合っただけなのだが。 …しかしやっぱり不思議だ。 レンアイってそんなにいいものか?…知りたいものだ。 古今東西の有名夫婦達の記事を読んだり、 ネットや現実でも睦まじいカップルの話を聞いたりして、 いいもんだな、末永く仲良くしてほしいな、と素直に思うが、 どうにも自分には全く当てはめられない。 痛い思いをするレンアイよりやりたいこと、やるべきことが多々あるし。 レンアイのタネみたいなものが元々欠落してるのかも。 まぁ何もなければ、さびしくも悲しくも羨ましくもないから、いいか。 そうだな、 友達ともレンアイくらいの距離で付き合いたいな。 逆か。レンアイも友達と同じくらいの距離がいいのか。 実際、その違いがよくわからない。 混乱してるんじゃなく、本当にわからないんだな、これが。 私にはどちらを気づかう気持ちも、寸分変わらない。 (具体的に例えばお土産を買ってくるとか、誕生日を祝うとか ふつー、友達より家族より、コイビトの方が優位? 自分は否。 人に、自分の感情で肩書き付けたりランク付けしたりするなんて、と思う。 変なの、と思う。 人それぞれ違うんだから、一番好きとか二番目に好きとか論外。私は。 でもいいよね、 凄く好きと思える人がいて、 その人からも凄く好きと言われて、 一緒に歩けるって。 それはかなり素敵なことだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008/06/03 05:01:33 AM
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