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ブログ、という言葉がなかった頃、
インターネット上の日記、として書き始めたのが7年前の2001年。 文章は生み落としたそばから、 他人みたいな顔をしてハラハラとその当たりに散らばっていく。 コレ、本当ニ自分ガ書イタノダロウカ? とはいえ、ふと珍しく読み返すと、他のどんな文字の並びより、 どれも納得できる馴染みがあり、ああ大丈夫だと慰めにもなる。 過去の文章をほったらかしに公開することで、 質問や疑問や、不要な心配や迷惑をかけやしないかと 少々不安にも思うのだが、更新数と比例してアクセス数も減少して いるから、まぁいいかと。 それで、ろくに更新もしないのに削除せずに7年経って しまったというわけだ。 当初、つぶやきをただ落としていただけだったのが、 見知らぬ場所からコメントがきたり、知人に知らせたり、 お互いに交流していくことによって、 すごく嬉しく救いになる反面、欲や責任も生じて 鍵をかけた日記とは異質なものになってきてしまった。 あの人はこういう人、とある程度の印象付けをして 人と人が交流していくが、 自分はこういう人、というのは実につかみかねる。 常に液体の水のように、見えていて触れられるのに、 確固たるカタチは持ち得ていなくて、 気付くと氷のように、歪(いびつ)なカタチで固まっていたり、 たまに霧のように、極細かな粒子になってその存在が 薄れてしまったり。自分とは、こういうモノだ。 そしてまた様々な色を発する。 水のときも氷のときも霧のときも、 自らの角度と周囲からの影響で、あらゆる色を放つ立場になる。 だから「らしくない」という言葉はどんな場合にも どんな人にも表現されるべき言葉ではないとも思う。 その矛盾は、実に、当然なものなのであって、矛盾ではない。 弱くて強くて、儚(はかな)くて逞(たくま)しくて、 いい加減で几帳面で、大らかで神経質で、 可愛げがあって憎たらしくて、頼り甲斐があって頼りなくて、 考え過ぎで、考えなさ過ぎであるのが、その人らしい、のだ。 たいていそうした複雑な自分にはいつか気付くのに、 自分以外の人の複雑さには無頓着で、 「あなたらしい」「君らしくない」「そんな人だとは」「がんこだ」 と言いたくなってしまうことが多い。 自分も自分以外のすべても、複雑だし頑張って歩いている。 そのなかで各々が主張しつつ歴史の一端を担っていく。 そう。 人間の、地球の長い長い歴史は、一部の生き物が操作したり 牛耳ったりしているわけではなく、 いまあなたがTVのどのチャンネルを選んでつけたとか、 電車で席を譲ろうとしたのに隣の人に先を越されたとか、 新聞のどこの記事に偶然目を留めて読むかとか、 どこかに傘を忘れてきたのを気付いた時に探しに戻るか戻らないとか、 スーパーで何を買うかとか、 どれもがすべて、今のこの歴史を紡いでいるのだ。 責任は重大で深刻。 だれもが時代の先駆者であり、世界の最重要人物であり、 いまこの時と空間を担い、この記録を見届ける唯一人の生きている者なのだ。 大丈夫。 その重要な仕事に押し潰されないよう、目の前の個人的な やるべき仕事もたくさん用意されているし、自分自身も複雑だし、 人との付き合いも、自然や社会との付き合いも盛り沢山。 でもできれば時々は、深呼吸して腹をくくって、 この我が身が、ただ自分という降って湧いた生命体ではなく、 いままでの生きてきた者からリレーしてきたカラダである ということを、 この地球と名付けた球体の上の歴史を担うたった一人の代表である ということを、 ちょっと緊張しながら思い起こすのもいい。 生意気な自信家であると同時に、あまりに弱々しく消え入りそうな、 そんな自分と自分以外のにんげんを許し、いとしいと思えたら。 どこに存在するのかわからない、延々と増幅する一方の インターネット上の文章たちがそのために役立つのなら。 どうか、建設的に。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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