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ひとりの人を好きになったり、ふたりだけで好き合ったりするのは、
いままでも散々書き散らしてきたが、自分にはやはり理解できない。 何人もとつきあったり、一夫(妻)多妻(夫)だったりがいいわけではない。 なんでその人でなければならないのか、別の人ではだめなのか、 その人の性別や年齢や性格をどうやって選ぶのか、選べるのかが、わからない。 しかもそれが一時的だったり、何かの理由で別れたりする。 というより、必ずそれは一時的で、別れを伴う。生涯を共にしたとしても、だ。 その現実はあまりに怖いし、自分も相手も信用するわけにいかない。 しかし、こんな自分にも、好き過ぎる、という感覚がある。 もう居ても立ってもいられず、叫び出したいような、泣き出したいような、 笑い転げたいような、喉が狭まって息が詰まるような。 嫌な部分がほとんど見つからないくらいに、足のつま先から髪の毛の先まで 全身で、好きだ、愛しい、両腕をいっぱい伸ばして包み込みたい、 と思うような。 レンアイだったら前述のように無闇に先ばかり想像して暗くなるのに、 理屈なんかお構いなしに、体から愛情がほとばしるような感覚。 これまで何度か、その感覚に直面している。 牧場で子ブタと会って、ハグハグと噛まれながら遊んでいたとき。 子ヤギ、子ヒツジ、子ウシ、パンダの赤ちゃんを見ているとき。 水槽で浮遊するクラゲ。図鑑の中のウミウシ。 つぼみから満開になり散っていくまでの梅や桜の花。 発光しているかのような新緑。数え切れない色が重なり合う紅葉。 見慣れた景色に雪が積もったとき。 神々しく変化して二度と同じ姿を見せない風景たち、山、空、雲、夕陽、朝陽。 遠くまで透き通った青い青い海。象牙色で足の裏にきめ細かい感触が残る砂浜。 芝居の稽古と本番中。合唱の稽古と発表中。 絵を描いているとき。なにかオリジナルのものの製作途中。 気に入った音楽を聴いているとき。 好き過ぎて、そこから逃げたいような気持ちになることもある。 感情があふれて、思わずスイッチをオフにしてしまうこともある。 いつか見えなくなる、失うときがくる、という不安もあるが、それよりも、 自分のほとばしる気持ちにおぼれてしまいそうで慌てるのである。 子どもの頃に、大好きな本をそっと開いて、そーっと文字に目を落として、 何度も大切に読み返しては、いつも同じ場面でじわっと気持ちをかみ締めていたような。 最近、プライベートで絵を描いたり、音楽を聴いたりすることが増えた。 それ以前10年間ほど、わざわざ自分から気楽な絵や音楽に触れる機会は少なくなっていた。 直接芝居や様々な活動に関わっていると、立ち位置が多少なりとも発信する側になり、 無給であっても仕事の一環のようで、ゆっくり楽しめる余裕がないのだ。 ただ何の意味もなく思いつくままに好きな落書きを描く。 心に惹かれる音楽を見つけて、流し続ける。 目、ありがとう。手もありがとう。耳もどうもありがとう。 とくに大した取り柄もない自分に、一瞬でも一年でもこの先ずっとでも、 これほど好きだと思えることがあってよかったと思う。 世間一般で恋人に会いに行くような感情が、今の自分にとって、 この好き過ぎる気持ちと似通っているのではないかと思う。 早くあの感覚に会いたくて仕方ない気持ちになる。 ところがまずいことに、アンテナの方向に没頭すると他の事が疎かになってしまう。 実際に子ブタと遊んでいなくても、美しい景色に見とれていなくても、 音楽をかけていなくても、どこか浮き足立っていて、現実が見えなくなる。 楽しいこと、嬉しいことがある分、他のことも頑張れればいいのだが、 そううまくいかない。 世間のニュースに疎くなる。洗濯物が山積みになる。 そして時々それらに気づいて落ち込む。自分を責めたくなり、それを回避したくなり、 また逃避する。楽な方へ楽な方へ。 無条件で嬉しくなれる「好き過ぎること」と、 自分しかできない一生かけて取り組んでいく「仕事」と、 それらを推し進めるための糧を稼ぐ仕事と、 バランスよくこなしていけるようにしていきたい。 今年の抱負。いや、生涯の抱負。 この日記(ブログ)開設時より、レンアイだのケッコンだの 人とツキアウということをごちゃごちゃと吐き出し続けてきたが、 やっと答えが見えてきた気がしている。 だれかと支え合いながら生きていく人生や、そのだれかを探し歩く人生よりも、 ずっと自分らしい生き方がある。 個人個人、幸せを感じる部分は違う。本当に違う。 押し付けられるものでもなく、押し付けられてもかわせばいい。 ときどき電流が走るほど「好き過ぎること」に出会う。 課せられた「仕事」も両手に余るほどある。 マイペースに、大切に、どちらも見失わずに、いつか止まるまで歩いていく。 こんなにも充実している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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