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カテゴリ:鬱病
昨日のような強い風をともなった大雨の翌日は
背の高い花が倒れていたり、軽い鉢植えなどは飛ばされていたりする。後始末が大変だ。それでも庭いじりは楽しい。 15年ぶりに訪れた完全とは言えないが穏やかな日々。 結婚して子供を産み、ほぼ同時に夫の両親と同居し 二人目の子供を産み、その後は両親とうまくやりながら 子育てと家事を一生懸命やって来た。 息子が中学2年、娘が小学4年の時うつ病が私を襲った。 それはある日突然だった。 その日は娘の運動会だったので娘に持たせるお弁当を 作っていた。娘は出来上がったお弁当を持って家を出た。 「お母さんも後から見に行くからね。」と送り出した。 その後だった。多めに作ったお弁当のおかずを食べて 朝ご飯を済ませようとおにぎりを食べようとした。 ところがどうしても喉を通らないのだ。 何故だか分からなかった。 病気でもないのにどうしたのかなぁと思った。 その日、夫と一緒に娘の運動会に行けたのかどうか記憶にない。それからの日々は坂を転げ落ちていくような速さで どんどん気分が沈んでいった。 私はどうしてしまったのだ。今まで一度も味わった事の無い 不安が身体中に広がっていった。 新聞の家庭欄などを読んでうつ病という病があることは 知っていた。 私はうつ病になったのかもしれないと思った。 しかし、精神科の病院へいきなり行くことができなかった。 夫は良くも悪くもおおような性格で私の変化をたいして 気にしていなかった。 えたいの知れない不安と恐怖を抱えながら家事を続けた。 あまりに辛く身体もいつも疲れている状態なので いつも診てもらっている内科に相談に行った。 今思えばあの時間違ったのだと思う。 今でこそテレビで製薬会社がうつ病のCMを流す世の中に なったが、15年前は医師でも畑違いだと「疲れが溜まって いるのでしょう」と毎日のようにビタミン注射を打って くれるだけだった。 もともと細い私の身体がどんどん痩せていくのが目に見えた。3ヶ月経ったのか半年経ったのか覚えていないが内科の 医師に専門の医師を紹介してくれるように頼んだ。 その時は本当のうつ病の怖さを私はまだ分かっていなかった。 紹介してもらったのはバスで10分ほどの距離にある 内科・神経科という看板のかかった医院だった。 不運はこの医院でも続いた。 医師は50歳後半くらいの快活な人だった。 軽いうつ状態の人なら治っていたかもしれない。 でも私の状態はもうその医師の治療方法ではどうにもならないものだったと気付いたのはずーと後のことになる。 その頃の事は断片的にしか記憶がない。 食べられない、眠れない、いつも不安で怖くて自分が崩壊 するのではないかと恐れていた。 スーパーで買物をしてレジを済ませ、もらったビニール袋と 商品の入ったカゴを台の上に置いたまま、暗くなり始めた 外を呆然と見つめる自分の痩せた身体がガラスに映っていた 。私はこれからどうなっていくのだろう。その瞬間の映像を今でもはっきり覚えている。 子供達は母親の病気には無関心を装っていた。 毎朝作っていた息子のお弁当も作れなくなっていた。 4年生の娘が学校に持って行く物や連絡事項などは 忘れないように、期日に間に合うようにとふるえる気持ちを 押し殺してやっていた。 娘は学校から帰ってもぬけがらの様になっている母親を 見たくなかったのだろうか、毎日のように友達の家に 遊びに行っていた。私はほとんど喋れなくなっていた。 息子や娘に淋しい思いをさせている事がかわいそうで、 申し訳なくて、身を切られる思いだった。 入院するまでの恐怖の2年間そして退院してからも すぐに元気になれるような病気ではないので子供達のことを 十分見てやることの出来ない悲しみは今でもこうして文章を 書きながら涙があふれ出てくる。 息子はそれでも中高6年間をスポーツをすることで自分の気持ちを支えて6年間一日も休まず大阪まで通った。 どんな立派な成績を取るより私は嬉しかった。 娘の小学校卒業式の一週間前に退院して何とか娘と出席 することが出来た。 しかし、繊細なところのある娘は母親の病気に影響を受けて 気持ちが弱っていたのかもしれない。 中学生になって3年間卒業するまでいじめを受けていた。 娘は3年間一言もそのことを私に話さなかった。 入院して何とか最低の家事は出来るようになっていたが 病気の大きな原因である夫の両親との確執はなくなっておらず、治るものも治らないという精神的にとても不安定な日々 が続いていた。 自分の事で精一杯で娘の苦しみに気がついてやれなかったことはその後の娘との関係に影を落とす事となる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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