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今日はちょっと留学ネタはお休みさせてもらって、ちょっと毛色の違う話を。
ここ最近さらにエコエコうるさくなってきているけど、個人的には本当にアホらしい現象だと思っている。もちろんエネルギーや物を大切にする心は大切だと思うけど、今、少なくとも日本が進んでいる方向は「言ってることとやってることが違うだろ」状態のような気がしてならない。 最近トヨタから極小車、iQが出た。 燃費はカタログ上は21km/Lだそうだ。念のため書いておくと、実際に車がカタログ上の燃費を達成してくれることは極めて希で、必ずといっていいほど実際の燃費はカタログ上の数値よりも悪いので、iQの燃費も実際には15km/Lくらいだろう。 ところで自分が免許をとってはじめて乗った車の燃費は20km/Lを上回っていた。別に軽自動車などではなく、ちゃんと大人が4人乗れる1.6Lのターボ(!)車だ。 こないだ年配の人と話をしていたら、トヨタのプリウスの話が出た。その方が昔運転していた車の燃費は軽くプリウス並だったそうだ。 どういうことかというと、これは恐らくあまり資源のことなど心配しなくても良い時代に車の高性能化が追求され、今になって急にエコが騒がれはじめたので、性能(や快適さ)は維持しつつ、さらなる「ハイテク」をつけ加えることによって燃費を押さえ込もうとしているということなんだと思う。 そもそも昔の車は構造が単純で重量が軽かった。同程度の車で比較すれば恐らく今の車は昔の車の1.5倍くらいの重量はあるような気がする。これは一般的な乗用車であれば常に大人8~9人を余計に運んでいる計算だ。今の車はエンジンルームを開けると中身がぎっしり詰まっているけど、昔の車は「骨しかないんじゃないの?」と思えるほどエンジンルームがスカスカだ。 また、部品なども今の車と比べれば多くが金属製で、リサイクルも今のプラスチックで埋め尽くされている車とくらべればよっぽど効率が良いと思われる。ネジ止めしてある部品も多かったので、その車自体はダメになっても、部品だけ外して他の車に流用することも可能であった。 もちろん安全性や排気ガスのことを考えたら、昔の車の方がはるかに劣っていただろう。でもそれではなぜ、あれだけ軽く、構造が単純でリサイクルに向いている昔の車に立ち返った上で、安全性や排気ガスの部分だけ追求しないのかと思う。 それができない理由は恐らく車の高性能化が追求された時代にゴテゴテ付け足された部分は作り続けないと(付け足し続けないと)経済が縮小してしまうからなのだと思う。プリウスにしても確かに燃費のみは良いが、その燃費を生み出すためにゴテゴテ付け足された部品等はいずれは「ゴミ」として廃棄されてるか、少なくとも処理をしなければならないわけで、だったらそんなもの付け足さず、さらに快適性や高性能を達成するための部品をとりはらったほうがよっぽど「エコ」のような気がするけれど、実際向かっている方向は全く逆だ。 そんな中、最近自分的に一番ヒットだと思っているのが、出演している毛利宇宙飛行士や多部未華子には申し訳ないが、積水ハウスの「CO2オフの暮らし」というCMだ。CMの中で「快適な暮らしをがまんするのではなく、技術の進歩をうまく使えば・・・」と毛利さんは言うんだけど、そんな夢物語が実現したためしはないような気がする。(要するに積水ハウスだって家を買って欲しいわけでしょう。) 「日本ほどエコに対する技術をもっている国はない」と日本の技術力の高さを伝えるニュースなどが多いけれど、その日本が京都議定書で自らがイニシアチブをとって「下げる」と約束したCO2排出量がむしろその期間中に上がってしまったというのはなんとも皮肉な話だ。 技術力が進歩すればおのずとより多くの物を生産し、結果として消費することになる、というサイクルほとんど必然的なような気がする。 では自分自身にエコの意識がないかというと、決してそんなことはない。ただ「快適な暮らし」とやらは死守(棚上げ)した上で、より多くの生産と消費を生み出す「技術力の進歩」に希望を託している形の今のエコには迎合できないということだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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