カテゴリ:日常のあれこれ
横浜は、生まれ育った街。
離れた街で暮らすようになったのは、大学、大学院を出て就職してからだから、24年間は横浜にいたのです。 それでも、自分が通った小学校、中学校、高校には、卒業以来寄りつきもしなかったし、小学1年の冬に(今では最寄り駅・港南台があるけれど)当時はバスで上大岡に出るしかなかった新興住宅地に引っ越してくるまで住んでいた、オヤジの会社の社宅があった新子安にも、あえて足を向けようとは思いませんでした。 過去を振り返るには、まだまだ若すぎたんでしょうね。 幼い頃の記憶の中には、今もって妙に鮮明な映像がありありとよみがえってくるものもあって、回顧モードぴったりの年代になってからも、追憶の中の風景がかき消えてしまっているのを確認するのが怖いような気がして、行ってみよう、とは思わずに来ました。 大阪からやってきて、限られた短い横浜での滞在時間を「過去への繰り言」に費やすには惜しい、と言う気持ちもあったし。 しかし、晴れて本拠を横浜に戻せてまもなく1年。 そろそろ解禁かな、というような気分もあって、このところ、仕事の合間に「記憶をたどって歩く」ことを実行しています。 今日の行き先は、新子安。 バスで「大口通」を過ぎ、次の「入江1丁目」で下車。 たしか、昔は「入江町公園前」と言ってたはず。夏には子供が芋の子になるプールは、健在でした。今の季節は閉鎖されてましたが。プールの前に出ていた屋台で、生まれて初めて「お好み焼き」というのを食べたっけ。 入江町公園から、確か、子供に人気があった小児科の医院の前を通って、幼稚園のころまで住んでいた「5棟」と、その近くにあった「一宮神社」に行く道があるはず……。 道は、まったく変わってしまっていて、小児科医院も跡形もなし。 しかし、一宮神社は同じ姿で待っててくれました。 ここで、私は「七五三」を祝ってもらったのです。 夏には、境内とそこから階段下へと続く沿道沿いにずらっと屋台が出るお祭りがありました。 確かお小遣い30円をもらって勇んで出て行ったのに、最初に出会った屋台でヨーヨー釣り(1回15円)を2回続けてやってしまい(失敗しても1個もらえるとは知らず、どうしてもカラフルな縞模様のヨーヨー風船が欲しかった……)、あっという間に一文無しになり、めそめそ泣き出した記憶もあります。たぶん、幼稚園だったんだ、あの頃。 通っていた一宮幼稚園は、神社の経営。 もちろん当時とは全く違う建物です。でも、境内の中の位置は一緒だな。本殿の左側だった、あの頃も。もっと広かった印象なのになあ。 「年長さん」の時に、給食?なんかも食べる大きな部屋に置いてあったオルガン脇で、なぜか気持ちが悪くなってゲロってしまって以来、今に至るまでどんなに酒飲んだ時にも吐いたことはない、というのが私の自慢です。はははっ☆ 一宮神社の境内は、もっとずっと広かったのです。 台風の翌日、本殿裏の広場に、羽が赤むけになって地面にたたきつけられて死んでいたたくさんのスズメたちを見て、泣きたい気持ちになったことを思い出しました。 でも、今日見たらその境内だった場所にはマンションが1棟建っていて、こぢゃれた植木鉢を並べた「だれかのマイホーム」が、びっしり並んでいました。 その境内からすぐの場所に、オヤジの会社の社宅が何棟も建っていたのです。 私が生まれた時、両親は、茅ヶ崎・浜見平の公団住宅に住んでいたそうですが、異様に詳細な記憶を誇る私にしても、浜見平についての思い出は何もありません。 私が覚えている最初の記憶が、この新子安にあった社宅の「5棟」です。 5棟の私たちの部屋は1階で、ベランダから外に出たところに、真っ赤なカンナが咲いていたような記憶があります……。 京浜東北線、東海道線、京浜急行などがずらりと並んだ線路を見下ろす場所に、5棟はありました。古いアルバムの白黒写真に、私の手をつなぎ、赤ちゃんの妹を抱いたおかんが、ノースリーブのワンピースを着て線路を見下ろすフェンス沿いに立ってる、という絵柄のものがあったのです。 まさに、おかんがその時に見ていたのと同じ風景が、今日もありました。 だけど、当時は、線路の反対側には「ビクター」の犬の看板が出ていたんだよな。 かつて5棟があったところは、とっくに社宅群全体が売られて再開発され、高層マンションが建ち並ぶ場所に変わってしまっていました。 この辺が5棟だった場所なのですが……。 5棟の時に、初めて家にカラーテレビが来たりしたんだよな……。 私と妹がお昼寝している間に、両親が大口通商店街まで出かけてしまい、目が覚めたら誰もいなくて、気がついたら知らない人がどやどやと家に入ってきて、私は恐怖と絶望で動転したのでした。その直後、その人たちの後ろからパパとママが来た! え? なんだ!テレビを運んできたんだ!! ……子どもの記憶だから、いろんな出来事がミックスされているのかもしれないけど、絶望と安堵と喜びと楽しさが短い間にどどっと押し寄せてきたこのときの記憶は、今も私の中ではものすごく鮮明な映像なのでした。 そんな5棟は手狭だというんで、おそらく幼稚園の年長ぐらいの時に、少し広くて新しい、もうちょっと奥まった場所に建つ「9棟」に移ったんだよなあ。 初めて「洋式便器」になって、使い方がわからなくて泣いてしまい、たまたま遊びに来ていた社宅仲間のおばさんが、おかんに「ほら、行ってあげて!」と言ってくれたっけ。 9棟は暮らした月日が短くて、ほとんど記憶にないのですが、団地に囲まれた広場に卵屋さんや豆腐屋さんが車でやってきて、お使いで買い物をしたことを覚えてます。卵を「1.5キロ」買ってくるように言われてたのに、わからなくなっちゃって(だって幼稚園なんだもん、小数点の概念なんかないよ~)、困って「1キロ5キロください!」と言ったら、卵屋さんは「ああ、1.5キロね」とわかってくれて事なきを得た、なんてこともありました。 何もかも、私の中では昨日のことのように鮮やかな残像なのに、そのすべては42、3年前の出来事なのです。 横浜に戻ってきて以来、訪ねてみたかった場所だったし、京浜東北線の車内から「5棟」なんか跡形もないことは見えていたんだけど、やっぱり改めてこの目で見届けると、しんとした気持ちになります。 新子安は、子育てを始めたばかりだった両親にとっては、もっともっと感慨深い場所かも知れません。 その両親も、すっかり年老いました。 何しろ、あの時、幼稚園児だった私が46歳だもんな。 人生なんて、本当にさらさらと過ぎ去ってしまうものなのですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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