カテゴリ:喪失と再生
今日は健康診断。
前夜からの絶食指示などのお知らせを読んでいると、どうしても息子の入院生活を思い出す。 入院前夜「ずっと3時間起きに授乳をしているのに、前夜21:00から何も口にせず病院に行くなんてできるのだろうか?」と悩んだこと。入院当日、処置をされている間息子はずっと細く長く泣き続けていたこと。移植前の放射線検査で決められた時間に寝かしつけることの苦労。それを横目に放射線の受付で自分の我が侭を押し通そうとする大人の患者さんに怒りを感じたこと、などがつらつらと絶え間なく引き出される。普段封印している記憶エリアから。 いつまで私はこのやり場のない怒りに悩まされるのだろう、そんなことを考えているうちに朝になってしまった。 先月のポーランド旅行では、アウシュビッツにも行ってきた。 私にとってのアウシュビッツは「かの有名な大虐殺が行われた人類の負の遺産」というだけでなく、尊敬する作品「夜と霧」が生まれた場所でもある。 「夜と霧」は、精神科医でもあるヴィクトル・エミール・フランクルが、アウシュビッツに収容された自身の経験を、徹底した客観性をもって書きつづった自伝的小説。小説教室の講師と、主治医に前後して勧められ読んだ一冊だ。 私の経験は彼の経験ほど過酷ではないけれど、「絶望を経験した人がそこから立ち直って書いた作品」として目指すべき方向の作品だと思っている。 その過酷な現場をこの目で見て、「ここから立ち直った人もいるのだ」と勇気をもらいたいと思って、この地に足を運んだ。 訪れたのは5月の終わりの日曜日。天気の良い日で、アウシュビッツまでの道のりも緑が美しい。教会のミサに行く盛装したご家族連れのほほえましい光景が続く。 とても控えめな「オシフェンチム博物館」という看板が1つ2つと現れた後、ホットパンツの美女に誘導されて車は駐車場へと向かった。 どこにでもあるドライブイン。パラソルがはためき、ジューススタンドも出ている。 徒歩でアウシュビッツへのエントランスへと向かうと、各国からやっていた旅行者の群れが姿を現した。 アウシュビッツへの入場は無料。ガイドツアーを希望する人は料金を払いイヤフォンをつける。日本語のガイドツアーはなく(日本人ガイドさんはいるが完全予約制)、私たちは赤ちゃん連れなのでツアーには申し込まず、何のチェックもなくゲートをくぐった。 あの有名な門も、いくつもの収容棟も思ったよりコンパクトな敷地に収まっている。 象徴としてのアウシュビッツのイメージは広大だけれど、より大きな収容所が隣接して別にあるらしい。 意外に思ったのは、空の青さと芝生の美しさ。 これは今がポーランドのベストシーズンだからで、きっと冬には景色も一転するのだろう。 各国の旅行者の中で一段と目立っていたのは、イスラエルの国旗を身にまとった高校生の集団。修学旅行なのか、先生とガイドさんに引率されて、それぞれの熱心さをもって見学している。真剣なまなざしの子もいれば、ふざけあって国旗を振り回している男の子もいる。 私はその中のひときわきちんと国旗を身にまとった少女に、キッと睨まれた。聡明そうな透き通った目で。彼女から見たら、私は加害者側の国に荷担していた人間なのだろう。 それにしても建物と建物の間隔が狭い。 収容所には子供専用の収容棟もある。こんなに間近にあったら、母親が我が子の姿を目にしてしまうではないか。「なんて配慮がないんだ」と私は見当違いの怒りを覚える。 実際に当事者になったなら、一目でよいから我が子の姿を見たいと思うだろうに。 子供の棟の洗面所などには、パステルカラーで象などのかわいらしいイラストが描いてある。この絵を描いた人はどんな思いで筆をとり、どんな思いで筆を置いたのだろう。きっと自身や親族の子供のことを思っただろう。 小児科病棟の過剰とも思える飾り付けを思い出す。 外から見ると一見同じような建物が並んでいるが、展示内容はそれぞれ異なる。 当時の収容所の様子を残してある棟、解放後見つかった品々を展示した棟、現代の芸術家たちがアウシュビッツをモチーフに残した作品を展示した棟など様々だ。(これらの情報は、入り口左脇の小さな書店で買い求められる日本語パンフレットよりも、「地球の歩き方」の方が詳しい。) 当時の人々は、監視の目をかいくぐって所持した小さなメモに様々なものを書き残した。ある者は日記をつけ、ある者は食事の量や刑罰を書き留め、音楽家は作詞をし、画家はスケッチを残した。 そして生き残った者は、大きな彫刻や絵画、そして小説でその経験を表現した。 「夜と霧」では、自分の職業知識を活かして人を助けれた話などは思わず筆が踊るようで、そこだけ異質なほど生き生きと書き残されている。人間性やバックボーンを否定された生活の中で、自分の専門性を活かせるのは無上の喜びなのだ。「自分がこの場にいる意味」を感じられた時、己のおかれた状況の理不尽さは、少しだけ薄まる。 私にとってのその瞬間は、本が好きな少女と好きな本について語り合ったり、日本語ができない中東から来た母親に「うちの子もクリーンルームにいたけれど、今はこんなに元気。だから大丈夫。きっとよくなる」とつたない英語で話しかけて、その目に少しだけ希望を灯すことができたこと。そんな些細な瞬間だった。 職業とその職業を通して身につけた知識や技術は、その人の生きる希望なのかもしれない。そしてこれからの私の職業は何にするべきなのだろうと、失業者の私は自問する。 数多くの展示物で、私が一番印象に残ったのは、冬服の囚人服だ。 つぎはぎが、とても丁寧に、何重にも美しく施されている。 「夜と霧」によると、糸や針はとても貴重な品。正攻法では調達が困難だったようだ。また自殺を考える者は、その前にお世話になった人々に自分の所持品を託したらしい。 この服の持ち主は、様々な苦悩と苦労と工夫を経てこれらの品々を手に入れ、丁寧に裁縫を施した。何度も何度も。 彼(または彼女)は、生きることをあきらめていなかったのであろう。そして限られた物資の中で、より頑丈にそして美しく見えるよう裁縫に工夫を施す知恵と余裕があった。なんて強い精神の持ち主なんだろう。 重い気分に沈んで建物の外に出ると、外には晴天と美しい緑が広がる。 私はそのギャップに慣れなかった。何度建物を出入りしても そこかしこに捧げられた花が、唯一、中の凄惨な過去と、外の現在とを結ぶシンボルに思えた。 次にここを訪れることがあったら、ぜひ私も花を持参したい。そう思った。
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