カテゴリ:教会
2007/05/20 domenica
関白仕事で朝から出掛け、nonが風邪で今日はひっそり日曜日。 1人でのんびり教会に行った。 大聖堂の工事の進捗状況も気になるし・・・ 立花神父の説教は、「千の風になって」を取り上げていた。 以前新井満さんに会った時のことから、あの歌の曲と歌詞が出来たいきさつを話した。 まあ、大変なヒットになっている曲なのだが、我が家では、あんまりうけてない。 死んだ人はお墓の中にいないなんてことは、当たり前だし、 いつもみんなの中にいるんだ、なんてことは、復活を思えば、これも当たり前。 日本でだって昔から、死んだ人の魂が、その辺にゆらゆらしているなんて、 聞いたことがあるような気がするではないか。 あれは、成仏出来ない不幸な人といことだったのだろうか? メロディは、綺麗で、印象的で、覚えやすくて・・・ と、ヒットの条件を満たしているのだろうが、 私ときたら、何となく口ずさんだり、頭の中でなってたりすると、 それは、いつの間にか「哀しみのソレアード」に変わっていたりするのだ。 神父さまのお話では、新井氏が最初に知った訳詞では、どうしてもしっくりしなくて、 苦労しているところに、何となく曲の方が先に出来て、 結局、自分で、新しく歌詞を作ることになったという。 勿論、元の詞の言わんとするところをふまえた上でのことだけど・・・ これも、シャンソンなどの日本語詞では普通のことで、 そのまま訳したのでは、1字1音の日本語では、 1語1音の外国語が入りきるわけないのだ。 綺麗な詞を、と思えばどうしたって、訳詞と言うより、作詞になる。 だから、1つの曲に複数の訳詞があるのは当たり前で、 どの詞で歌うかというのは、歌い手次第。 たとえば、「百何本のバラ」は、加藤登紀子と、松山善三のものが一般的。 詞として文学的でいいと思うのは松山善三。 具体的な情景描写なら加藤登紀子、といった具合だ。 「千の風になって」の場合は、詞と曲が同じ人によるものなので、 この曲に違う歌詞ということは考えられないが、 同じ原詩に、新たな曲と詞が生まれることは考えられる。 聖堂の工事はかなり進んで、今は、上空から見ると十字架になるトップライトの部分に さしかかっているらしい。 この工事方法を提案したのは、イタリア人事務局長で、 ゼネコンが開発したのだ、というのだからちょっとビックリ! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年05月27日 07時01分13秒
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