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2009/11/26 gio.
昨夜というか今朝早くというか、午前1時頃だったかと思う。 ちょっとやっておかなくてはならないことがあって、TVを付けっぱなしにしていたら、 ワンダーワンダーという番組で、夏に行った、 妻有トリエンナーレ「大地の芸術祭」 を取り上げていました。 作品出してた(見損なったけど)日比野克彦、 元タレントで今は確かデザイナーになっている篠原ともえ、 それに嵐山光三郎が加わっていました。 現代アートというと、何か特殊な、周囲から突出したもののような気がして、 ハナから分からないと言ってしまう人が多いし、作る側も、 どーだわかるか? といってるように思えるものが多いのですが、 あそこでは全くそんな風には感じなかったのです。 それが私の中で、ずっと不思議なまま残っていたのですが、 この番組を見て、何だそーいうことだったのかと腑に落ちた気がしました。 日比野さんはもう、確かな現代アートの作家ではあるし、 とっぴなかっこうでTVに登場していた篠原ともえちゃんだったのですが、 あの里山の中で、何処までがアートであり日常なのか分からなかったというのです。 ホントに私たちも、あの中を歩いて、棚田の美しさに圧倒されもしたのでした。 この番組では更に、現代アートが、里山の人々に如何に受け入れられたかを見せてくれました。 おじいさん1人だけになってしまった集落の、 残された廃屋すべてに明かりを灯しておじいさんを慰める。 また別の集落では、そこに生活する(或いは生活していた)人たちの人型をたてる。 それに話しかけ、励まされる人たち。 そして、人工的に作った虹を毎日楽しみに見に来るおばあさん達。 それぞれの願いを書いて貰った白い布を繋げて、山肌に山という字を書き、 最後には、みんなの願いが天に届けとばかり、火を付けて燃やす。 そんな企画に協力を惜しまない中学時代の同級生達。 それはまた、私が奴奈川舎や美人林で出会った土地の人から受けた感動に重なるのです。 現代アート、というより、芸術というものはそもそもこういうものだったのか、 と改めて思いました。 何度かイタリアを訪れて、美術館で見る芸樹に納得がいかなくなり、 それぞれの芸術作品には、 その存在すべき場が他所にあるように感じるようになったのですが、 同じ事をこの「大地の芸術祭」で感じてたように思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年11月27日 02時07分28秒
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