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カテゴリ:暮らし
私はいわゆる「神」「仏」は信じない。
そんなものはいない。 出会ったためしがない。 歴史上、神やら仏が出てきて人間世界を救ったためしは無い。 しかし、聖書やら仏教やらの経典に出てくる話は好きだ。 中には面白い話もある。 「全ては一つでありすべてはまた一つに帰依する・・・」 と釈迦が話したという。 その通りだろう。 たしかにそうだ。 真摯で真っ直ぐな言葉が聖書や仏教経典にはあふれていて、凄まじく真実を、あるいは現実を突き詰めている。 それは多分真実だ。 しかし、「言葉」で語る以上、語弊は避けられない。 特に聖書や経典など研ぎ澄まされた言葉で固められた書物、しかも二千年の時の流れの中で人が推敲をしている。 洗練され過ぎて孤高の高みの言葉、しかし残念ながらいかようにも受け止めやすい言葉になってしまう。 死ぬほど吟醸された純米酒。 誰が飲んでもうまいはず。 しかし、それは諸刃の剣だ。 正しすぎて使えない剣。 人間には振るうことが出来ない、それこそ神の、仏の法剣だろう。 振るうことが出来なければただのガラクタ。 己自身を問い、前進するなら他にもやりようはある。 神やら仏の代弁者みたいに主張する馬鹿がいるがちゃんちゃらおかしい。 私は悪鬼羅刹、あるいは阿修羅、あるいは悪魔になったとしても人間の、通常の、欲を含めたなかで生きてやりたい。 神様?うちの玄関から「こんにちは」って挨拶して入ってきてみやがれ。 そしたら信じてやるよ、馬鹿の説教と一緒にな。 忘れずに「上善水の如し」くらいもってこい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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