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カテゴリ:国内旅行(2019年9月〜)
長崎県 島原半島の先にある原城跡には、私が行きたかったところ。
嬉野を出て、雲仙方面に向かい、雲仙から島原市に入る。その先にあるのは原城跡。 HPより 丘の上にある原城跡。 対岸は天草。 歴史的にも大きな場所だった。 キリシタンが「潜伏」し、独自に信仰を続ける方法を模索することを余儀なくされたきっかけとなる「島原・天草一揆」の主戦場跡。 原城は1496年、当時26万石ともいわれた領主・有馬貴純によって築かれたといわれ、周囲4キロの三方を有明海に囲まれ難攻不落の天然の要害で、本丸・二ノ丸・三ノ丸・天草丸からなり、別名「日暮城」とも呼ばれた美しい城であった。 佐賀の龍造寺により再三侵略されたが、島津氏の救援で島原沖田畷にて勝利をおさめ、島原半島の南部をかろうじて維持できた。 有馬晴信が1612年に岡本大八事件に連座し配流・切腹となり、子直純が再度有馬の地をおさめたが、2年後日向に転封となった。 その後、1616年大和五条より松倉重政が入封、一国一城の令によって島原城(森岳城)を築城したので、日之江・原城は廃城となった。 1637年、この廃城となっていた原城に一揆が籠城した。 「島原・天草一揆」である。 昭和13年5月30日、国の史跡文化財に指定。 原城本丸には南島原市出身の彫刻家・北村西望による祈りをささげる天草四郎像や、西有家町の民家の石垣に埋もれていた天草四郎の墓石が移されている。
原城本丸は島原・天草一揆の際、総大将の天草四郎など指導者層が立て籠もり、最後まで籠城戦が行われた場所。 南島原市より 天草四郎の墓。 島原の亂、天草一揆の大将、天草四郎は15歳だったという。どんなにかカリスマ性があったのだろうか。 原城からは有明海、天草が綺麗に見渡せる。 小雨ながらも雨が上がり始めた。 案内所から高齢男性がパンフレットを持ってきて下さった。少し解説をしていただく。 この一揆で36000人が亡くなったと言われた。 この男性のご先祖様もその一人だったと言われた。 最後の最後まで、全員で戦ったのだそうだ。 キリシタン弾圧に加えて、年貢の取り立てがこの地域が特に酷くて、生きていけない農民がどんどん亡くなっていく中、一揆を決意するしかなかった状況は想像しても辛い。 この地は、キリスト教の信者の方々には、特別な場所であり、大事に守られている場所。 原城跡そばにある、原城温泉という施設内にあるレストランで昼食。 日帰り湯や宿泊もできるようで、地元の方々がお風呂上がりに寄って賑わっていた。 具雑煮 郷土料理 これも、考案者は一揆軍の総大将、天草四郎時ともいわれていて、 「島原の乱では、幕府方の攻勢で原城内に封じ込められた一揆軍が兵糧攻め”に遭って悲劇の最期をとげるわけですが、その際に四郎の命によって急遽作られたのが「具雑煮」という説です。 具雑煮は寛永14年(1637年)の島原の乱の時、一揆軍の総大将であった天草四郎が、約3万7千人の徒たちと籠城した際、農民たちに餅を兵糧として蓄えさせ、山や海からいろいろな材料を集めて雑煮を炊き、栄養をとりながら約3ヶ月も戦ったと言われています。 材料は鶏肉、アナゴ、シロナ、レンコン、ゴボウ、凍り豆腐、椎茸、卵焼き、丸もち、春菊など十数種。まさに海の幸、山の幸の集大成です。平成19年(2007)には、農林水産省の「農山漁村の郷土料理百選」に卓袱(しっぽく)料理と並び選定されています。」 武将同士の戦いと違い、なんと悲しい歴史であったかと、地元の方々はボランティアで語り継がれいる。 世界遺産認定。 くもりながらも、雲仙普賢岳方面 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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