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カテゴリ: 2008年
おじいちゃんの訃報を聞いたのは、葛西臨海公園の水族館のレストランで、だった。
休みかも…と言っていたダンナが休みではなく、朝から普段どおりの掃除洗濯をし、先日の大雨で汚れた窓を拭いて、時計を見たら、まだ9時半。子供たちも、宿題も終え、DS、レゴブロック、基地作り…と一通り遊び終えたところで、この晴天の下、どこかに連れ出さないと持て余しちゃうなぁと思って、出かけた先だった。 18歳から離れて暮らしているので おじいちゃんが痴呆になって、どんどん悪化して…というのがあまりぴんときていなかった、と思う。 お母さんからの電話で、おじいちゃんがどんなことを言うとか、どんな状況だというのは分かっていたし、 去年の夏、帰省したときには、ちょうどおばあちゃんが入院中でおじいちゃんひとりで寝ていたものだから、朝5時くらいから、5分10分おきに、「朝ごはんはまだかいなぁ?」と聞きにきて、(私の)子供たちはその異様さに怖がっていたと思う。 でもそれも実家にいる数日のことだし、毎日向かい合う苦悩や苛立ちや、悪化を目の当たりにする悲しさは分からない。 幼い頃の記憶が強すぎて、知っているおじいちゃんとはもう別の人になってしまったんだ、とただなんとなく思うばかりだった。 毎朝山に登り、庭の手入れをし、88歳までの運転をしていた。 私たちの幼稚園の送り迎えをし、膝ででんぐり返しをしてくれたり、木切れで工作を教えてくれた。 自転車に乗れるようにしてくれたのもおじいちゃん。 勤勉で、真面目で、 分からないことを聞くと本で丁寧に調べて教えてくれた。 夏休みの自由研究…押し花、昆虫採集、石の標本、海草の標本のいづれもおじいちゃんの力なくしては完成し得なかった。 頑固で、母とよくけんかをして、どちらも引かず、毎度大喧嘩だった。(つまり母も相当頑固だ…) 私が高校生の頃まで、本代といってお小遣いをよくくれた。 私の、気になると何でも調べるところと本屋好きはおじいちゃんに由来すると思う。 (ちなみに…妹の、鉄棒と走るの得意なのは おじいちゃん譲り…らしい) おじいちゃんとは63歳離れているので、働いていた頃のおじいちゃんを知らない。 葬式では、生前を偲ぶスライドショーを流すらしいので、それはちょっと楽しみ。 おじいちゃんが死ぬというのが、こんなにも悲しいものだと、初めて知った。 でも、お母さんに、介護、お疲れ様、とも言いたい。 今夜の夜行バスで弟と一緒に向かい、 明日の通夜、明後日の葬式に出、日曜の朝まで、 子供たちはじじばばにお願いすることにした。 夏休みなのだから行こうと思えば子供たちも行けるし、ダンナも、こういうときは休めるよ、と言ってくれたのだけれど 子供が一緒だと、私は母親にならざるをえないので、 おじいちゃんのお葬式は私自身が孫の顔でいたいような気がして… まさかひと月の間に、鳥取⇔埼玉を2往復するとは思わなかったけど。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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