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2007年03月07日
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カテゴリ:大分・竹田市散策
こんばんは~!日曜日は20℃を越えた大分県ですが、月曜日から急に寒くなりました。小雪が舞い、水曜日の朝は祖母山頂は雪の冠をかぶっていました。おまけに、今朝は霜柱。でも、なんだか冬が戻ってきたみたいでちょっとうれしい私…。寒いけど、今日の青空はとてもきれいでした。

さて、先日紹介した西光寺のこの像ですが…。
2006_09240010.JPG

誰だかわかった方いますか?なんか、「滝さん?」なんてコメントに残した方がいらっしゃいましたが、近所のおじさんじゃないんですからね~、どらちゃん!像の作者は、以前このブログで紹介した朝倉文夫氏です。

この像の主の名は、藤丸造警部です。西南戦争で、わずか33歳で命を落とされました。今日はその藤丸警部のお話をひとつ…。(像の前にあった掲示板の文を参照しています。)

明治10年(1877)の西南の役で、政府軍の偵察員として活躍し殉職された臼杵市出身の大分県十等警部藤丸造氏は、当時佐伯警察署の重岡分署長でした。薩摩軍の大分県への侵入を竹田署や熊本の政府軍に報告していて、遠くは熊本の鎮西台まで自ら足を伸ばしていたそうです。

しかし、竹田地方の薩摩軍の動きを偵察中薩摩軍につかまりました。明治10年5月23日、政府軍が竹田に迫ったとき、下木の稲葉川の川原で斬殺されました。川原には、その場所を示す川原石が置かれてあります。

「魂魄(こんぱく)となって空中に遣り、人民保護」
と叫び、藤丸警部は33才の人生を閉じました。 その一部始終を見ていた西光寺第十九世、狐松上人は、その霊をねんごろに弔いました。以後毎年5月23日には、この西光寺に関係者が集まり、慰霊法要が今も行なわれています。  

稲葉川沿いにある藤丸警部殉死の地の碑。
2007_02050015.JPG

また、亡くなって十有余年の歳月をへて、町内有志の人々によって「平和なふるさとづくりの資に」と祝儀碑がひとこと稲荷社が入口側に建てられました。これは知らなかったです。ひとこと稲荷は以前このブログでも紹介しましたが、なんで神社をお寺の西光寺が管理しているのか不思議に思った程度です。

西光寺本殿内には、藤丸警部の最後の場面を見ておられた方々から話を聞かれた深沢画伯が、精魂こめて描きあげた殉職最後の想像画があります。    

藤丸警部は民家に隠れていたそうで、そのときこっそりと警部の食事などの世話をする女性がいたそうです。捕まったときは命乞いもせず、潔く斬られたとか…。

写真を見てわかるように、藤丸警部殉死の碑を見に行った日は美しい花がたくさん飾られていました。その数日前に竹田市で、竹田での西南戦争を考える会らしきものが発足したことを新聞で読みました。その会の方々が碑の周りを掃除し、顕花したようです。その会、私もとても興味があるのですが、写真を見るとおじいちゃんばかり…。ちょっとその中に入っていく勇気がないので、研究結果の冊子か何か出たら読ませていただきたいです。

藤丸警部の本当のお墓は臼杵市にあるそうです。


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最終更新日  2007年03月07日 22時39分57秒
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