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テーマ:大分&熊本 観光地紹介(838)
カテゴリ:熊本県散策
小学校高学年の頃だったでしょうか、国語の教科書に「谷間に架かった虹の橋」という物語が載っていました。通潤橋を建設するために惜しみない努力をした布田保之助という人の偉人伝のような話でした。タイトルまで覚えているくらいだから、子どもなりにそうとう印象深い話だったのか、写真で見た放水時の通潤橋が見たいと思ったのでしょう。その通潤橋が熊本県矢部町(現・山都町)にあると知ったのはほんの10年くらい前のことでした。で、訪れたのは先月のことです。
通潤橋 通潤橋は、江戸時代嘉永7年(1854)に阿蘇の外輪山の南側、山都町の五郎ヶ滝川の谷に架けられた石組みによる用水の水路橋です。農林水産省の疎水百選に選定されています。 水の便が悪く、水不足に苦しんでいた白糸台地の民衆を救うため、地元の惣庄屋であった布田保之助が計画を立てて資金を調達し、熊本八代の種山石工技術者集団の協力を得て、近隣農民がこぞって建設作業に参加して建設された石橋です。日本最大の石造りアーチ水道橋で、国の重要文化財に指定されています。その石工の技術的なレベルの高さをを示す歴史的構造建築物です。 長さは75.6m、高さは20.2mで、アーチの半径は27.6mあり、橋の上部に逆サイフォン(噴出管)の原理を応用した3本の石の通水管が建設され、今でも周辺の田畑を潤しています。通潤橋は日本の独自技術で実現した最初の噴水管の橋と考えられています。 この水路付き石橋は、アーチ型の木枠(支保工)を作った上に石を置き、水路を設置して橋が完成したところで木枠を外す工法により建造されました。石橋の木枠を外す最終段階には、橋の中央に白装束を纏った布田が鎮座し、石工頭も切腹用の短刀を懐にして臨んだといいます。それだけ命をかけた重大な工事だったのでしょうね。 布田保之助の像 通水管に詰まった堆積物を取り除くために行われていた放水も、今では観光放水として、大型連休と7月から12月中旬の土日祝日の正午から行われています(要予約で有料放水もあり)。 通潤橋の放水(終わりがけ…) 実は、放水なんていつされているかも知らず、なんの期待もせずに通潤橋へ行った私。橋を渡り、満足して五老ヶ滝を見に向かいました。で、帰ってくるとザアザアと水の音が!「放水やっ!」って思い、ダッシュで橋に戻り、なんとかギリギリ間に合いました。下に降りると、子どもの頃に教科書で読んだとおり、水しぶきに虹も架かっていて感激しました。この放水の瞬間を見た布田や建設に携わった人々、想像できないくらい感慨もひとしおだったと思います。 ちなみに、通潤橋を渡りきったところに「通潤橋」という文字が彫られた石柱がありますが、これは「御用改めでござる」でおなじみ(笑)の新選組の池田屋襲撃で自刃した肥後勤王党の宮部鼎蔵の筆なんだそうです。 次回は五郎ヶ滝のお話でも… お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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