最近、映画日記が少ないchicaです。
映画日記を楽しみにしているみなさま、ごめんなさい。
映画を観てないわけではないのですけどね。
ここのところ、日常日記の神様が降臨しております。
実は、私、今学期、レズビアン文化の授業を取っております。
日本では、なかなかこういうことは学べないかもしれないと思いつつ、
なかなか貴重な体験をしているかもと思います。
何人かのレスビアンのお友達も、一緒に授業を取っています。
授業が終わった後は、ちょうどお昼時なので、
一緒にご飯を食べたり、お茶を飲んだりすることもあります。
実は、私はこの同性愛者のお友達に苦手意識を抱いてしまったことがありました。
今のバイト先で働き始めてから、同性愛者のお友達が増えて、
そのたびに彼らと仲良くなっていったのですが、
やはり彼らなりに、同性とは恋愛感覚で付き合ったことのない私のような人々が
入ってはいけないような結束感があった気がしたのです。
この結束感がどれだけ強くて、自分と違う立場の人にフレンドリーに接する具合は、
もちろん、同じ同性愛者であっても、人によって違います。
でも、やはりどうしても、彼らの何人かは非同性愛者の人々とは付き合いにくいのかな~
という印象を受けることがありました。
2日前に授業が終わった後、今日の授業はどうだったかね、
とご飯を食べたり、コーヒーを飲みながら、彼女たちとお話していたのですが、
そこでの彼女たちの一致意見はこんな感じでした。
『悪いとは思うのだけど、やはり「私はレズビアンじゃないけど・・」みたいな
発言ばかりする人(私ではない)って、バカじゃないかと思うわ。
そんなこと言われなくたって、あんたなんて口説かないさと思うさ』
まあ、私も同じようなことをちょっとは思います。
特に最後の一文。同性愛者だからって、同性のみんなを口説くわけありません。
これは本当に、いまだに同性愛者に対して色んな人が抱いている偏見だと思います。
でも、バカじゃないかと思うわなんて言われたら、割とパンパンものを言ってしまう私だって、
レスビアンのクラスでは発言できない気がしました。
要するに、発言する前に一度頭で失礼なことを考えていないかと
考える癖を養えばいいのでは、と思いますけどね。
火曜日はもうひとつ、午後(といっても、なぜか夜に近い)にもう一つ授業があるのですが、
その授業にレズビアン文化の授業も一緒に取っている子を見かけました。
思い切って話しかけてみて、ちょっとだけ一緒に話したのですが、その子は
「あのクラスは、私の専攻のアドバイザーから勧められて、取っているのだけど
もし勧められなかったら、取っていなかったと思うわ」と言っておりました。
私からしてみれば、「ふ~ん、そうなんだ~。」としか思わないのですが、
もし、あるレズビアンのお友達が同じことを言われるようなものなら、
「じゃあ、あなたは最初から興味がなかったということ?
アドバイザーから勧められていなければ、取ってなかったということ?
あなたは私はレズビアンじゃないのよ、と言いたいわけ?」
と思ってしまうかもしれない。
一度、あるレズビアンのお友達が
この社会は非同性愛的すぎる!!というようなコメントをどこかで
書いているのを、目にした気がするのですが、
これって、私も含めて非白人の人たちが
この社会はあまりにも白人中心の世界だと思う感覚に近い気がしました。
彼女らの結束感も、非白人の人々が抱いてしまう結束感にも近いかもしれない。
結束感が高いコミュニティーに属している特殊なアイデンティティーや
考えを持ち合わせている人々だって、彼らとは違う立場にいる人々の存在、
同盟(英語ではally)が必要なんだ、と私は信じたいのです。
でも、その同盟になるのは、やはり大変なんだな~と思う事があります。
私のバイト先では「どうすれば同盟になれるのでしょうか。」という
話し合いや研修を何度かしたことがありました。
でも、やっぱり口頭で「ああすればいい、こうすればいい。」といわれるより、
やっぱり本当に同盟になろうとしないと、どうすればいいかということは
学ぶことが出来ない気がします。
自分と違う立場にいる人について興味を持つ、学ぶという姿勢が
同盟になる第一歩なのでしょう。
そして、彼らの立場を自分の立場を置き換えてみて、考えてみる
というのも、大事な姿勢なのでしょう。
もし、自分と違う立場にいる人々が同盟になる気配がありそうなら、
心を閉ざさないで、心をちょっとでも開くことはとても大事な気がします。
私の同性愛者のお友達たちも、みんなとても素敵な人たちです。
そんな彼らともっと仲良くなれれば、と思うのと同時に、
私も自分と違う立場にいる人々にも、
なるべくフレンドリーに接するように心がけよう、と思うのでした。