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ちょっとながーーくなりそうですが、ずっと書きたかった事なので暇なうちに(笑)。
面白くない話かもしれないので、そうならスルーしてくださいね~。 私は元々宗教ってものにとっても興味があった。 特に、キリスト教。 幼稚園がカトリック系だったので、子供向けに作られた聖書をコタツにこもってずっと読んでいたのを覚えている。 だけど、あの時は聖書を「神様の話」「実際にあった話」だなんて全く考えていなくて 親指姫とかかぐや姫、桃太郎と同じような童話みたいに捉えていた。 園にはシスターもいたし、外国人の神父さん(当時は「神父様」と呼ばされていたけど、「しんぷさま」と言うのが丸ごと名前だと思っていた笑)もいて、集いの時に彼の話を聞いたような気もするんだけど、彼がhollyな存在なんて全く知らなかった。 その後中学に入って、 歴史でキリシタン弾圧の時代の話が出てきた。 徳川家康が隠れキリシタンを見つけるために「踏み絵」ってのを行うんだけれど、それはマリア様やキリストが彫られた板を足で踏みつけさせ、クリスチャンかそうでないかを見極めようとするもの。 踏めない人や躊躇する人はクリスチャンだ、という風にみなされる。 中学生だった私は、 「もしどんなに信仰が深くても、たかが板ならその時に思い切って踏んで、生き続けたほうがキリスト教の神様だって喜ぶんじゃないのかねえ? どうして殺されると分かってキリスト教と認める事が"善"なんだ?」 と浅はかに思っていた。 けれどその時の先生がそれを見透かしたように 「たかが銅板や木版だと言っても、考えてもごらん。 自分の母親や父親の写真を、踏みつけろと言われたらそう出来るか? 躊躇する心が絶対に湧くだろう?」 とおっしゃって、私はなるほど・・・と非常に納得がいった。 宗教を信じる人の気持ちはしれないけれど、 自分の父母に対するような愛情(勿論、畏敬の念とかもあるだろうけどね)をマリアやキリストに抱く事が信仰するって事なのだな、と。 その後、キリスト教信者であり作家である三浦綾子さんの本を読んだりして、 私は自身がクリスチャンになる気はさらさらなかったけれど、クリスチャンに対してとてもいい感情を持っていた。 それがガラガラと崩れていったのは高校でアメリカに留学した時。 私は他の留学生総勢7名と一つの家に「寮」という形で暮らしていたんだけれど、 そこの寮母というかホストマザーがプロテスタントの信者だった。 それまで、聖書の話を聞くのは割りと好きだったし、興味もあった。 けれど彼女の話す聖書の解釈はなんだかとても偏っていて私は混乱した。 一度、サンクスギビングに「お芝居」を見に連れて行ってあげる、という事になり、田舎に閉じ込められていた私も他の留学生も喜んでついていったのだけれど、着いた所は教会だった。 「お芝居」というのはその教会の人たちが行う素人の学芸会みたいなもんだった。 それだけでも辟易していたのに、あの舞台の内容はひどかったと私は今でも思う。 ストーリーは非常にシンプル。 物語には色んな人間がでてくる。 犯罪者、普通の母親、学校に通う女の子、一生懸命働くお父さん。 そして全員が様々な形で死ぬのだけれど、クリスチャンであった人間は、生前どんな行いをしていようとも天国へ行き、そうでなかった人は地獄へ落ちていく。 そういう話。 つまり、殺人者でも死ぬ5分前にキリスト教を信じる事を決めたおかげで天国へ。 生前特に悪い事をしなかった子供を想う優しい母でもキリスト教ではないので地獄へ。 その母親の娘はクリスチャンであったので天国へ行くんだけれど、死後二人は引き離されて娘は「おかあさーーん。だから何度も言ったのに・・キリストを信じてって・・」というセリフをはいて天国へ消えていく。 いっくら信仰深いと言ってもね、このスクリプトはどう考えたっておかしいでしょう。 演劇が終わり、舞台にいる人が煽って、座っている人たちに呼びかける。 Say Yes to Jesus!! みな立ち上がり、両手を仰いで叫ぶ。 Say Yes to Jesus!! 私はその全てに吐き気がして気持ちが悪くなった。 信者が寄ってきて 「立ちなさい。ジーザスにYESといえば、地獄に行かずにすむのよ。You don't wanna be left behind, do you?」 と私に言う。 絶対に立ってなんかやるもんかと意地になって、私は無言で彼女らを無視した。 寮に帰って私は寮母に反論した。 「犯罪者でも天国へ、よい人でも地獄へ、ってどう考えたっておかしいでしょう。 その犯罪者に殺された被害者が善良な人でも、キリスト教じゃなかったらその人は地獄に行くわけ?おかしいって思わないの? この世はなにもかも平等でないけれど、せめて死後の世界は全て平等に、生前の行動の良し悪しで人間は裁かれるって、そう思わないの?」 寮母は 「おかしくなんてないわ。 この世の人間はみな、"平等に"クリスチャンになるチャンスを与えられているんだから。 チャンスが訪れたときにYesと言うかNoと言うか、違いはそれだけよ。」 と言った。 その他にもその寮母が話した事でびっくりした事はいくつもある。 ユダヤ教について。 彼女の言葉通りに言うと 新しい時代が来た時に、神が「新しいバイブルに変え、信ずるように」と仰った。 しかしユダヤ人はそれを拒み、古いバイブルを信仰し続けた。 (ユダヤ人はジーザスがメサイヤ(救世主)として現れたときにそれを信じなかった、というのが本当の所。彼女はそんな事は一言も言っていなかったけれど、分かっていたのか今でも謎。) そして彼女は言った。 So you know, look what happened to Jewish people during Second World War. これにははらわたが煮え繰り返った。 じゃああんたはヒットラーの行ったマサカーが神の意思だったっていうのか!!?? They deserve itって言うのか!? あの悲惨な体験をしたユダヤ人の人が聞いたらどう思うだろう。 それから黒人の肌がなぜ黒いか、という事についてもこんな事を言っていたな。 ある兄弟がいて、その父親(アダムとイブの息子だったと思うんだけど)がある日酔っ払って家に帰り、裸で寝てしまった。 父親に毛布を被せようと近づいた兄弟の一人は、裸の父親を見る。(それがキリスト教では駄目だったのよ、と彼女は言っていた) それが神の怒りに触れて彼の皮膚は黒く変化した。 もう一人の息子は、後ろ向きに歩いて父親に毛布をかぶせ、裸は見なかった。 そのために白い肌のままで居られた。 「だから、黒い肌は罪を犯した証なのだ」 このエピソードを私は聖書で読んだ事がないのだけれど、本当にこんな事がかいてあるのだろうか?今まで何人ものクリスチャンの人に聞いたけれど皆「そんな話は知らない」という。 今でもこれは謎。 だけど、この話の根底にある考えって結局 白人>黒人の図式でしょう。 黒人は罪深い、と言っているんだから。 だから今考えると差別意識が彼女の中に働いていたような気がしないでもない・・。 私は彼女を見て、「信仰する」という事は「自分で考える事、判断しようとする事」を止める事なんだなとその時思った。自分で甘んじて視野を狭める選択をすることなのだな、と。 彼女は信仰の厚いクリスチャンだったかもしれないけど、私にしてみれば他人の痛みとか辛さの分からない、想像力に欠けた人間だった。 話を聞いたって説得力なんてなかったし、話を聞くたびにこの人ちょっとおかしいんじゃないかと思った。 そういう経験もあって私は、「神は信じるけれど、私の神は"キリスト教じゃないから"なんて基準で人を裁くような了見の狭い存在であるはずがない。だから、私はただ自分の判断と道徳心にそってよい人間であろう。」とずっと思ってきた。 で、最近であったのが(昨日の日記に戻るんだけど)美輪さんや江原さんがおっしゃる世界のしくみ。 これだー!と思ったんだよねえ。 全ての人間に平等で、納得の行く世界のしくみ。 あの時のホストに聞かせたら、どんな反応をするんだろう。 (誤解のないように、勿論クリスチャンみんなおかしい、と思っているわけじゃあ全然なくて、素晴らしい宗教家、信者も沢山いる事も百も承知である事を付け加えておきます。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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