|
カテゴリ:災害記録帳
1946年12月21日、まだ夜が明ける前の4:20分頃、南海トラフ沿いの潮岬南方沖でM8の地震が発生した。昭和南海地震である。
被害は中部以西の日本各地にわたり、死者1,330、家屋全壊11,591、半壊23,487、流失1,451、焼失2,587(いずれも理科年表より)を記録している。 昭和南海地震はフィリピン海プレートがユーラシアプレート下に沈み込む南海トラフ沿いで起きた海溝型地震とされるが、南海トラフ沿いではこれまでも繰り返し大きな地震が発生している。 この地震の92年前の1854年12月24日に同じ震源域で安政南海地震が発生している他、昭和南海地震の2年前の1944年12月7日には同じ南海トラフ沿いで昭和東南海地震が起きている。 気象庁(当時は中央気象台)の観測所での最大震度は5(強震)となっているが、震源から離れた福井市や境港市、大分市など広範囲で記録されている。 最大震度5は近年の被害地震と比較して大きくないが、淡路島で「揺れは阪神・淡路大震災より、もっともっと長かった」という証言があるように、長い揺れが被害を拡大させた可能性があり、洲本市に残る史料には「圧死者」との記述があり、大半が倒壊家屋の下敷きになったとみられる。 地震に伴い津波が発生しており、串本町で6.57mの最高潮位を記録したのをはじめ、房総半島から九州まで(瀬戸内海も含め)1m以上の潮位を記録し、津波はアメリカ西海岸にまで達している。 和歌山県の広村では、「稲むらの火」のモデルとなった濱口梧陵が、安政南海地震後に津波から村を守るために私財を投じて建設した、高さ5m、全長600mの堤防が功を奏して、4mの津波に襲われながらも被害は最小限で済んだとされる。 しかしその一方で、堤防にさえぎられた津波のエネルギーが、堤防が途切れた南西側の湾奥に集中、川に沿って遡上し、この地域を襲ったことで犠牲を出している点も認識しておく必要がある。 <広村と堤防(海岸の防潮林がある部分)。この外側(南西側の川沿いに被害が集中した)/地理院地図より1961~64の空中写真> また高知県を中心に地盤の変動が見られ、室戸岬で 1.27mの上昇が観測された他、各地で地盤沈下も発生している。 高知市や須崎市などでは地盤が低下したところへ津波が押し寄せたことから広範囲で浸水し、では家屋の倒壊に加え、水が引くまで半月程度を要している。 家屋の倒壊も相まって、高知県では多くの被害が記録されている。 徳島県でも家屋の倒壊や津波による被害が多く発生した。 徳島市では「昭和南海地震体験談に見る徳島市の姿と知恵」として、当時の体験談を取りまとめており、防災意識の啓発に取り組んでいる。 こうした体験談の取りまとめは和歌山県御坊市でも公開されているなど各地で取り組みが進んでいる。 地震発生が終戦からまだ時間が経っておらず、高知でも徳島など空襲の被害が大きかったと市では追い打ちをかけるような被害であったことも考慮する必要がある。 徳島市をはじめとして、当時に比べると海面の埋立が進んだことや、当時住宅のなかった海岸付近や背後の水田地帯も宅地化した場所が多いことから、今後同様の地震が発生した際には液状化等で被害が拡大する恐れがあることを、専門家は指摘している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.12.22 01:39:53
コメント(0) | コメントを書く
[災害記録帳] カテゴリの最新記事
|