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カテゴリ:日活撮影所あれこれ
1961年(昭和36年)は私にとって忘れられない年だ。何故か、スターへの階段を上りつつあった赤木圭一郎が天の星になったからだ。デビュー作「拳銃0号」から「霧笛が俺を呼んでいる」「俺の血が騒ぐ」と数本ではあるが、作品にタッチしたからだろうか。挨拶を交わした程度で、話をしたこともなかったのだが、人柄は良かった。ちょっとはにかんだような笑顔が忘れられない、 赤木はトニーの愛称で撮影所のスタッフには好かれていた。事故のあつたのは2月14日の昼頃だったようだ。その日、私は午後から出たのでその時は居合わせなかった。所内は騒然としていたように思う。調布警察が現場検証に大勢来ていた。 所内のメイン・ストリートの食堂の前からぶつかったT字路のステージの鉄扉までは約50メートル位ある。自動車会社が宣伝に持ち込んだ一人乗りのゴーカートだが、赤木はこれに乗り込んだのだ。ヘルメットもかぶらずぶつかったらしい。レーシング・カー使用なので結構スピードも出たようだ。おまけにぶつかる直前にブレーキとアクセルを踏み間違えたらしいから、コレはもう悲劇である。 救急車で調布の慈恵医大病院に担ぎこまれ、21日の死亡まで約1週間生死の境をさまよった。そして大勢の人の祈りも空しく不帰の人となった。後追い自殺した少女もいたそうだから驚いたものである。 その1週間の間、撮影所内は火の消えたようだった。誰もが口数少なく、赤木の回復を祈っているのが良く分かった。首脳陣も撮影所と病院を往復しているようだった、死去の日、女優さんたちの目は赤く潤んでいた。確か当日の撮影は全部中止になったように思う。 トニーの告別式が終わった後、赤木の妹さんが撮影所に挨拶に見えていた。おとなしそうな感じで、その姿が哀れを誘ったのを覚えている。きっと兄妹仲が良かったのであろう。 トニーはまだ21歳での早世に、和製ジェームス・ディーンとして死後、更に人気を高めた。 トニーのことを全く知らない人も多いだろう。せめて一度でもいい、生前の赤木を作品で偲んでやって欲しいと思う。 トニーよ、夜空に輝くデッカイ星になれ!! 哀悼の意を込めて。 ブログランキング参加中 応援よろしくお願いします ↓ 人気blogランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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