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テーマ:男優たちの華麗な酒盛り(277)
カテゴリ:東宝映画
日露戦争前夜、厳寒の八甲田山中で過酷な人体実験が実施された。酷寒のシベリアで戦うための体力実験だった。神田大尉が率いる青森5聯隊は雪中で進退を協議しているとき、大隊長が突然“前進”の命令を下す。その指揮系統の混乱は、ついには199名の死者を出す。 少数精鋭の徳島大尉が率いる弘前31聯隊は210余キロ、11日間にわたる全行程を完全に踏破した。自然と人間のすさまじい闘いを迫真の演技で描いた超大作と言えよう。 その1: 明治35年、冬の八甲田山で陸軍青森第5連隊をおそった悲劇!! 「冬の八甲田山を歩いてみたいと思わないか」と旅団長から声をかけられた二人の大尉、青森第五連隊の神田(北大路欣也)と弘前第三十一連隊の徳島(高倉健)は全身を凝固させた。 日露戦争開戦を目前にした明治三十四年末。第四旅団指令部での会議で、露軍と戦うためには、雪、寒さについて寒地訓練が必要であると決り、冬の八甲田山がその場所に選ばれたのである。 二人の大尉は責任の重さに慄然となった。雪中行軍は、双方が青森と弘前から出発、八甲田山ですれ違うという大筋だ。再び逢えるかどうか分からない二人は一夕酒を酌み交わして別れを告げる。 年が明けて一月二十日。徳島隊は、わずか二十七名の編成部隊で弘前を出発。行軍計画は、徳島の意見が全面的に採用され隊員はみな雪になれている者が選ばれた。 出発の日、徳島は神田に手紙を書く。それは、我が隊が危険な状態な場合はぜひ援助を……というものだった。 一方、神田大尉も小数精鋭部隊の編成を申し出たが、大隊長山田少佐(三國連太郎)に拒否され二百十名という大部隊で青森を出発する羽目に。神田の用意した案内人は山田にことわられ、いつのまにか随行のはずの山田が隊の実権を握っていたのだ。 その2: 指揮官の優劣が部下の命まで左右する? 慎重さと決断、勇気、これは指揮官の能力だが、時と場所を間違えると悲惨な結果を招くという見本だ。 神田の部隊は、低気圧に襲われ、磁石が用をなさなくなり、白い闇の中に方向を失う。神田は体力を温存するために休止を主張するが、精神論者の山田は闇雲に”前進”を命令する。次第に隊列は乱れ、狂死するものさえ出て来る始末。 一方徳島の部隊は、女案内人を先頭に風のリズムに合わせ、八甲田山に向って快調に進む。体力があるうちに八甲田山へと先を急ぐ神田隊。耐寒訓練をしつつ八甲田山へ向った徳島隊。 狂暴な自然を征服しようとする二百十名、自然と折り合いをつけながら進む二十七名。しかし八甲田山はそのどちらも拒否するかのように吹雪が襲いかかる。神田隊は次第にその人数が減りだし、辛うじて命を保った者は僅か五十名ほど。この残った者に対しても雪はとどめなく襲いかかるのだった。一寸先も見えない吹雪、そして雪崩に巻き込まれて・・・ 神田は、薄れゆく意識の中で徳島に逢っていた。二十七日、徳島隊はついに八甲田に入った。天と地が咆え狂う凄まじさの中で、神田大尉の従卒の遺体を発見。神田隊の遭難は疑う余地はなかった。徳島は、吹雪きの中で永遠の眠りについた神田と再会。その唇から一筋の血。それは、気力をふりしぼって舌を噛んで果てたものと思われた。 その3: 両部隊の運命を分けたものは何だったのか!? 進軍ラッパだけでは勝利できない??? 雪と氷で全身凍りつくような徳島隊の者もやっとのことでとある部落に辿りつく。そこには神田隊の救助隊が待っていた。 「いいか、八甲田で見たことは一切他言は無用。もし喋るものがいたら、一生、憲兵に追われるものと思え!」 徳島は全員に厳しい口調でこう申し渡す。 そして徳島は安置された神田の遺体と対面するのであった。第五連隊の生存者は山田少佐以下十二名。のちに山田少佐は責任を取って拳銃自殺。徳島隊は全員生還した。しかし、二年後の日露戦争で、全員が戦死したのである。 これは実現不可能と云われた新田次郎の原作を映画化した名脚本化、橋本忍と監督森谷司郎が成し遂げた世紀の大傑作だ。 未見のあなたには、ぜひ見ていただきたい。将来、指揮官を志すのであれば尚更だ。 1977年 東宝・カラー 監督 森谷司郎 出演 島田正吾 大滝秀治 高倉健 丹波哲郎 北大路欣也 三國連太郎 加山雄三 小林桂樹 森田健作 ブログランキングに参加中です 応援よろしくお願いします ↓ 人気blogランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.01.23 21:09:45
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