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ピンクのマリリンモンロー★New-U★アメリカンブリキ看板★再入荷しました!★10P25Sep09 マリリン・モンロー、彼女ほど不幸な人生を送った女優はいないだろうと思える。だが、また彼女ほど多くの人に愛された女優もいなかったのではあるまいか。 マリリンはハリウッドが創造したセックス・シンボルであり、愛のヴィーナスでもあった。ポチャッとして、オツムがどこか抜けている平均的アメリカン・ガールだった。誰にでも手が届きそうな女性と思わせて、手が届かない女性だったといえよう。 彼女を見ていると、その”愛らしさ”に男は参ってしまう。ギュッと抱きしめてやりたくなるのだ。 マリリンは1926年6月1日、カリフォルニア州ロサンジェルスで生まれた。母グラディスはRKO映画編集室員で精神病のケがあり、彼女の出生証明書には、父:モーテンセンと書かれているが本当のところは不明だ。 彼女の生涯は悲劇だった。私生児として生をうけ、8歳で暴行され、16歳で初婚に破れ、生活のためにヌード・モデルになった。 1947年、20世紀フォックス採用され、「嵐の園」という映画に端役で初出演、だが、あまりぱっとせず契約を切られてしまう。 しかし女優への夢を諦めきれなかった彼女はコロムビア映画に移籍、「コーラスのレディたち」で準主役となる。しかしコロムビア映画とはその映画一本のみで終わり、その後は再びヌードモデルなどをしながら演技の勉強をし、エージェントを探した。 そして、1951年にエージェントのジョニー・ハイドの尽力で「アスファルト・ジャングル」、「イヴの総て」に出演、注目される。以後、数本の映画に脇役で出、1952年の「ノックは無用」で初主演。こうして彼女はようやく陽のあたる場所に出てきたのだ。 1953年「ナイアガラ」での腰を振って歩く仕草(モンロー・ウォーク)で世の男性の注目を集め、続く「紳士は金髪がお好き」、「百万長者と結婚する方法」や「七年目の浮気」が大ヒットして一躍トップスターとなった。 1954年2月1日に元野球選手ジョー・ディマジオと結婚。読売ジャイアンツの招きもあり、新婚旅行を兼ねて日本を訪れたが、結婚生活は9か月しか続かなかった。 1956年には劇作家のアーサー・ミラーと結婚、彼女は歌って踊れる上に、コメディのセンスも中々で、スタミナもある。次々に仕事が舞い込んだ。但し、センスやスタミナを心理的に支えてやる支柱がいつも必要で、アーサー・ミラーの存在が欠かせなかったという。 その後、「帰らざる河」「バス停留所」「ショーほど素敵な商売はない」「お熱いのがお好き」とヒットを飛ばした。 そして、それまで彼女の支えだったアーサー・ミラーと1961年に離婚。この頃、ジョン・F・ケネディと交際していたと言われている。「女房は生きていた」の撮影中、睡眠薬の飲みすぎとかで、孤独の死を遂げた。1962.8.5、36歳の女ざかりで中天の星となった。遺作は「荒馬と女」。彼女の死は大きな波紋を投げかけた。 荒馬と女 / マリリン・モンロー 彼女の葬儀を取り仕切ったのはジョー・ディマジオだった。彼女は別れても尚愛し続けてくれる彼の存在にようやく気が付いていた。そして再婚の日のためにウエディングドレスの仮縫いまでした矢先の死だったのだ。 ディマジオは映画業界の人間は一切呼ばず、しめやかな葬儀を営んだ。身長6フィートの大男は、最後までおびえた少女だったモンローを思い、心から泣いたのであった。 ケネディ大統領が絡んでいただけに自殺説、謀略説などいろいろ飛び交ったが、真相は不明だ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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