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テーマ:男優たちの華麗な酒盛り(277)
カテゴリ:マ~モ
【一生涯保証付・一点もの】[直筆サイン入写真] (映画 ワイルド・チェンジ) モーガン・フリーマン
モーガン・フリーマン、彼を意識して見た映画は「ミリオンダラー・ベイビー」だったように思う。クリント・イーストウッド監督・主演のこの作品で、モーガンはアカデミー助演男優賞を得た。彼の存在感なくしてこの作品の成功はあり得なかっただろうと思える。 ミリオンダラー ベイビー アカデミー賞授賞式の会場で名前が発表されたとき、会場の全員がスタンディングオベイションで祝福したという。それほど人望があったということだ。彼は黒人を超越した存在だったのである。 彼は1937年6月1日、テネシー州メンフィスで生まれた。父モーガン・ポーターフィールド・フリーマンは床屋で、母メイミー・エドナは清掃婦だった。 モーガンには3人の兄がいた。フリーマン家はミシシッピ州グリーンウッド、インディアナ州ゲーリーなど多くの地を転々と移り住み、その後イリノイ州シカゴに居を構えた。モーガンは幼い頃から演劇の素質があったようだ。9歳の時小学校の演劇で主役を務めたそうである。 12歳の時には州の演劇コンクールで優勝、高校時代にはテネシー州ナッシュヴィルでラジオ演劇に出演したという。だが彼は1955年、ジャクソン州立大学の演劇奨学金を断ってまで合衆国空軍の機械工となったのだ。愛国心も強かったようである。 1960年代に入り、モーガンはロサンゼルスへ移住し、ロサンゼルスの短期大学に事務員として勤務したこともある。 1964年に開かれたニューヨーク万国博覧会ではダンサーを務め、またサンフランシスコではオペラ歌劇団にも所属していたこともある。 モーガンの実質的な役者デビューは『ザ・ロイヤル・ハント・オブ・ザ・サン』(The Royal Hunt of the Sun)という劇で、1965年に公開されたシドニー・ルメット監督の『質屋』という映画にも出演している。 1967年には『ザ・ニガーラヴァーズ』でヴィヴィカ・リンドフォースの相手役としてオフ・ブロードウェイにデビューした。翌年、1968年には役者全員が黒人バージョンの『ハロー! ドリー』でブロードウェイの舞台に立ったそうである。 端役でないフリーマンの最初の出演作品は1971年公開の『フー・セッズ・アイ・キャント・ライド・ア・レインボー?』という映画だったが、彼が有名になったのは連続テレビドラマシリーズ『アナザー・ワールド』とPBSテレビの子供番組『ジ・エレクトリック・カンパニー』だった。 1980年代に入ってフリーマンは知的で温かみのあるキャラクターとして助演者で頭角を現した。そして、次第に有名になった彼はブルース・ベレスフォード監督の「ドライビング Miss デイジー」(1987年)やエドワード・ズウィック監督の「グローリー」(1989年)など主役級の役柄まで演じるようになったのである。 ドライビングMissデイジー グローリー 1994年、フランク・ダラボン監督の大ヒット作「ショーシャンクの空に」ではティム・ロビンスと共に主役レッドを演じ最高の評価を得たと同時に人気も高まった。彼の魅力が一気に開花したのである。 この作品を機にケヴィン・レイノルズ監督「ロビン・フッド」、ミミ・レダー監督「ディープ・インパクト」など多くの映画で成功を収めた。 フリーマンはその特徴的な声色からナレーターとしての仕事も頻繁に入るようになった。2005年、スティーヴン・スピルバーグ監督の「宇宙戦争」や、アカデミー賞最優秀ドキュメンタリー映画賞を受賞した「皇帝ペンギン」のナレーターを務めている。 その他、モーガンの作品には、「素敵な人生のはじめ方」「最高の人生の見つけ方」「グレイテストヒッツ:アミスタッド」「許されざる者」など、名作、佳作が山のようにある。 私生活では1967年10月22日、ジャネット・アデア・ブラッドショウと結婚したが1979年に離婚、1984年に結婚したマーナ・コリー・リーとは2008年8月に離婚している。 二人の息子と前妻との間に娘がおり、前妻の連れ子を養女にしている。彼ももう72歳、功なり名遂げた俳優の一人だろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.12.20 17:33:40
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