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テーマ:男優たちの華麗な酒盛り(277)
カテゴリ:マ~モ
メル・ファーラー、最初に見たのは人形芝居の一座を描いた、心温まるミュージカル「リリー」だったと記憶している。
(ハイリリー ハイロー~)の歌で思い出される人も多いと思う。公開が1953年(昭和28年)だから、私が高校生の時だ。梅田か難波の劇場で見たようだ。 メル扮する人形遣いが、見世物小屋の給仕係のリリーに人形を使ってやさしく話しかける。目を輝かせながら人形を見守るリリー。 メルはリリーを深く愛しているのだが、リリーの心は魔術師へ。51年の「巴里のアメリカ人」でデビューしたばかりのレスリー・キャロンが実に愛らしい。当時、キャロンは22歳だった。 もう一本はキング・ヴィダーが全魂を傾けて壮大な映像で描いたトルストイの名作「戦争と平和」。イタリアの大プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスは云う。 「この作品のナターシャ役はオードリー・ヘプバーン以外に考えられなかった。そこでメル・ファーラーをアンドレイ公爵に起用することで、オードリーの出演承諾を取り付けたんだ」 この頃、人気絶頂のオードリーはメルと結婚していたが、夫のメルを口説くことでオードリーを納得させたようだ。 戦争と平和 アンドレイの死を看取るナターシャの哀切極まりない表情は誠に見事なものだ。夫婦協力しての撮影現場が目に浮かぶようである。 それにしてもイタリアで撮影されたこの作品は大変だったそうだ。エキストラには、1万8000人のイタリア陸軍兵士が動員され、馬は3000頭。さらに事故が多発した戦闘シーンでは、兵士に扮装させた医師約60人を救急看護のためエキストラとして紛れ込ませた。 だが、もっと大変だったのは、ナポレオン軍が猛吹雪の中を敗走する場面だ。7月のイタリアの猛暑の中、石膏粉に浸したコーンフレークを送風機で吹き飛ばし、夏のローマのテベレ河畔をロシアに変貌させたのである。 映画では真夏のシーンを真冬に撮影したり、真冬に真夏を撮ったりということが多い。スタッフの苦労はともかく、役者さんの苦労は想像を絶するものがある。 彼は1917年8月25日、ニュージャージー州エルベロンで生まれた。プリンストン大学在学中から、夏はマサチューセッツ州デニスの劇団ケイプ・コッド・プレイハウスに参加。その後はヴァーモント州で出版社に勤めていた。 プレイハウスで主役をつとめるまでになってからは出版社を退社し、ブロードウェイに進出する。数々の舞台を経験後、さらに地方の放送局に見習いとして入って、DJなどを担当後、NBCのプロデューサー兼ディレクターとなる。 1945年に映画入り、当初はダイアログ・ディレクターとしてコロムビア社と契約。俳優としても映画に出演した後、再びブロードウェイに戻るなど、舞台や映画に俳優として活躍し、1950年の「狙われた結婚」で監督にも進出した。 主な出演作品には、「女帝キャサリン」「フランス式十戒」「恋多き女」「陽はまた昇る」などがある。 1960年代はヨーロッパでの活躍が多くなり、低予算映画の出演がほとんどとなった。監督作品にはオードリー主演のファンタジーもの「緑の館」がある。 私生活で結婚は5度。1937年に小説家のフランセス・ピルチャードと結婚し一男を儲けるが離婚。1940年に彫刻家のバーバラ・C・トリップスと結婚、二男一女を儲けるが離婚。1942年に再びフランセス・ピルチャードと結婚。 4度目は女優のオードリー・ヘプバーンと1954年のブロードウェイの舞台『オンディーヌ』共演後に結婚。共演作に1956年の「戦争と平和」、監督作に1959年の「緑の館」、プロデュース作に1967年の「暗くなるまで待って」など夫婦一緒の仕事も多かったが、1960年に子どもを儲けたのち、1967年に別居、翌年には離婚した。原因は彼の派手な女性関係だといわれている。 1971年にエリザベス・スコーティンと結婚。1980年代後半以降は公に姿を見せることがほとんどなかった。但し、1993年に元妻であるオードリー・ヘプバーンが死去した際には彼女の葬儀に訪れており、公式には1998年まで芸能界に籍を置いていた。 2008年6月2日、カリフォルニア州サンタバーバラ郊外の自宅で死去。享年90歳だった。死去の半年ほど前から療養所と自宅を往復していたという。死因は未公表。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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