カテゴリ:わたし
「自業自得」という言葉の意味をひしひしとかみ締めながらかつてを振り返る今日この頃。
2.女の幸せ 私は無事私立四年制大学への合格を果たしたわけですが、学部は本来希望していたものとは大きく異なりました。 今だったら絶対にこんなおろかな選択はしないと思うのですが、当時私が簡単に頭を切り替えられたのには理由があります。 それは、私にとって大学での勉強というのは一般教養の延長に過ぎなかったからです。 将来あれをやりたいからこれを勉強したいと思っていたわけではなかったので、決まった学部での勉強に教養として十分に価値があると思えた以上、さほど文句はありませんでした。 私は一度も働いたことのないある意味世間知らずな母の長女として育ち、その価値観をかなり植えつけられておりました。 親戚中見回しても、女性は全員四年制大学を卒業したものの、結婚後に仕事を続けていた人はいませんでした。 年上のいとこの女性達も仕事よりも結婚を選んでおりました。 だから、この頃の私には仕事を結婚よりも優先させようという考えは毛頭ありませんでした。 だったら短大で十分だったのでは、とも言えますが、短大では学生生活がたったの2年で終わってしまうではないですか。 私に必要だったのは4年間のモラトリアム。男性に勝らずとも劣らない教養を身につけつつ、悔いなく結婚できるようにやりたいことを思う存分やっておくための時間だったのです。 3.大学 無事大学に入学すると、私はすぐにクラスの中で同じにおいを感じる人たちと仲良くなりました。 1人を除いて私立女子高出身、2人は内部進学者だったので受験もしていませんでした。 サークルでも同じく仲良しができ、私は思い描いたとおり楽しい大学生活を送り始めました。 一年生のときは一般教養科目と語学のクラスおよび専門のゼミ入門が一こまあったのでけっこう大学には通っていましたが、大体出席必須のクラスを終えるとランチをして午後はぶらぶらしているか、バイトに行っていました。 二年生では第二外国語のフランス語では頑張って楽勝クラスの座席を確保しました。先生は学生に関心があまりなかったのか、代返もOKでした。 この先生、非常に良心的な方で、試験には必ず教科書の例題と教科書の文章まるのままの翻訳を出題されていたことから、試験時には翻訳とすべての例題の答えを記入し、さらにインデックスまで備えた豆本さえ作ればばっちりでした。 先生は、試験の半分の時間は後ろのほうの学生がカンニングできるように教室の前の方で、もう半分は前の方に座っている学生を助けるために教室の後ろのほうでそれぞれ読み物をしたり窓の外を見てすごされるという寛容な方でした。 私が諸々の試験のために作成した手のひらサイズの豆本のたぐいはA型の職人芸とでもいうべき繊細かつ詳細にまでこだわった芸術品だったので、捨ててしまったことが今になって悔やまれます。 英語はそうは行かなかったので講読のクラスには出席していたのと、2年生から入れるゼミがあったので取っていました。 三年生では一般教養の体育も夏のワンゲル合宿で済ませてしまったし、般教もほとんど残っていなかったので、出席をとる科目が少なく、週1回のゼミとあわせて週3回ぐらいしか学校へ行きませんでした。 サークルの陸トレもいやだったので行かず、その分駅の反対側のジムで週3回の筋トレをこなしながら同じく駅の反対側でひたすらアルバイトをしていました。 こんな私でもなんと3年生で卒業単位のすべてを取り終えてしまったため、四年生では本当にやることがなくなってしまい、それでも日本の大学は3年間では卒業させてくれず学費も払わなければならなかったので、仕方なく登録したのがフランス語会話と1年生用のスペイン語のクラスでした。(英会話もやったような??) が、結局どれも就職活動で行かれなくなってしまうことからすぐにドロップアウトしたように記憶しています。 このスペイン語のクラスを教えていらしたのが、今日私が尊敬している先生です。 第二外国語でフランス語なんかとらずに少数精鋭クラス(??)でスペイン語を選択し、この先生に早い時期に出会っていたならば、私の人生は大きく変わっていたことでしょう。 (実際、英文科に所属しながらこの先生の虜になり、師弟となって今ではスペイン語の指導や翻訳、執筆活動にいそしんでいる同期の卒業生と昨年知り合いました。) ちなみに私が人生でもっとも勉強した時期はおそらく大学3年生の1,2月でしょう。 私の学部は出欠をとらず、年に二回か、一回の期末試験だけで成績がついてしまう授業が多かったので、試験前のノート収集と独学に命がかかっていました。 学部には社会人入学の学生(当時は「なんでわざわざ社会人になってまで大学に戻ってくるんだろう」という目でその方々を見ていましたが、今の私は何度だって入れてもらえるものならば大学で勉強したいと思います)もいたので、気前よくノートを貸してくださったりして、その他何人かの優秀で勤勉な学生のノートをコピーしまくって、それを熟読したり、独自にわかりやすい参考書を見つけてきて勉強し、一年間のブランクを埋めて試験に臨んだのでした。 (なので、試験には「私の顔はどれでしょう」といって教授の顔写真が並んでいる問題が出る、とよく噂になっていました) 年に一度や二度のみの試験ですべてが決まってしまうということは、私のように年に一度や二度しかクラスに出ないものでも運よくパスしてしまうこともあれば、情け容赦なく不合格にされる学生も多かったので、学部全体の留年率は20%程度と高いものでした。 今の私であれば、たとえ出席をとらない授業だろうときっと出席して、ノートもきちんと取ると思います。 ちゃらちゃらした女子学生がノート貸して~♪と頼みにきたら貸すかどうかはクエスチョンですが、真面目そうな学生が頼みにきたら(←私の学生時代も頼みに行く役は比較的真面目な学生が担当でした)貸しても… いいかな。 で、4年間も大学にほとんど行かずに何をしていたのかと言えば、ひたすらアルバイトしてお金をためて、冬ごとに最新のスキーウェアと用具を買って山にこもり、アルバイト(一応イントラ)しながら練習に励んでいたのでした。 が、悲しいことに、元来運動神経に乏しい私はどんなに努力しても運動で報われることはなく、この面ではかなりいろいろと屈辱感を味わいました。 スキー場での収穫は、1年生の冬にアルバイトしたスキー学校で知り合った他大学の2つ上の先輩とつきあうようになったこと(この人とは4年間続きました)と、他にも年上の知人もたくさんできたこと、この年に知り合ったスキー学校の先生がその後ペンションをオープンしたときに居候させていただいたこと、…(途中省略)… そして4年生の冬に、学生時代を通して打ち込んできたスキーがちっとも上達していなかったことに落ち込んで投げやりになっていた私に手を差し伸べて毎日入念に指導してくれた同い年のインストラクターのおかげで春の終わりには見違えるように上達が見られてやっとのこと達成感をあじわえたこと、でした。 が、しかしです。学生たるもの、いくら課外活動で充足感を得られたとしても、学業のほうがおろそかでは本末転倒であって、褒められたものではありません。 社会人になってから、日本では「大学でなにやってたの?」と聞かれても「えっ、スキーです(自爆)」と平気で答えていましたが、海外に出てからは自分の専門を口にすることすらはばかられたものでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[わたし] カテゴリの最新記事
|
|