カテゴリ:わたし
今日は主人と息子は早起きして二人で多摩テックに出かけていきました。
二人でまる一日、男の子らしい遊びを満喫してきたようです。 私は月に一度の日本料理教室にでかけてきました。 今日は最初に包丁の研ぎ方(前回リクエストした内容です♪)を習い、各自持ち寄った自分の包丁をきれいに研いで持ち帰りました。 お料理は春の食材(たけのこ、そら豆、たらの芽、菜の花ほか)をふんだんに使ったものにメインはステーキ! それぞれのお料理にあわせて出される飲み物は、今日は各種のオーガニックワインでした。 料理教室を主宰している友人の友人で私が昔から知っている人や、共通の知人を持つ人なんかも参加していたので、おしゃべりも楽しみました。 満足。 ところで、私が先週書き始めた「わたしがえらくなれなかった理由」についてちょっと補足します。 「えらくなれなかった」なんていうとまるで自分がえらくなりたかったとかえらくなれるはずだったかのように聞こえてしまいますが、決してそういうわけではありません。 そもそも「えらい」ってどういうことなのか定義がすごく曖昧ですが、私がここで意味するところは「自分の信条に従って行動し、自分の役割や専門に対して誇りを持っていられること」という意味です。 もっとも「えらくなれなかった」という言葉には、現在、日常感じているジレンマも込められています。 それはどういうことかと言えば、私は現在派遣社員として仕事をしているわけですが、私が職場で置かれた立場というのは個人的にはかなり屈辱的なものだからです。 課長は私より若干年上ですが、それ以外のスタッフは皆年下です。 仕事ですから年下の社員のためにコピーをとってあげたり仕事の下処理を手伝うことには全然抵抗ありませんし、逆に職員の方も多少気を遣ってくれているようなのでその辺はうまくいっています。 私が屈辱を感じるのは、こんな若い人たちが自分の専門性を追及し、日々邁進しながら仕事しているのに、自分にはそういう期待がされておらず、ただ同じところをぐるぐると回っているだけだからなのです。 自分自身の持っていた選択肢と彼らのいる世界が最初からかけ離れたものであったなら潔く割り切りもついたのでしょうけれど、こんなことを言うと高慢ですが、実際はそうではなく、私だって過去に正しく行動してさえいれば、彼らの側の先輩にだってなれていたかもしれない、あるいは彼らと同じぐらいの専門性をもった人間としてもう少しましな立場で仕事上のかかわりを持てたかもしれないと思ってしまうからなのです。 けれどもそうならなかった理由は、私という人間がなまけもので、長期的な視野に立ってこつこつ努力することをこれまでの人生を通じて怠ってきたことの積み重ねです。 投資に例えるなら短期の運用オンリーで、目先の利益を追うことばかりに執着し、先行投資とかある確信に基づいた長期的な運用をまったくしてこなかったからです。 「やるだけのことはやったのにできなかった」ならばともかく、「やればできたかもしれないなのにやらなかった」のは自業自得以外の何物でもありません。 私のこれまでの人生、後者の積み重ねばかりだったので、今更手遅れではありますが、もう一度チャンスが訪れるならば今度こそは無駄にしないようにしようと思いつつ、過去の失敗をこの機会に徹底的に探ってみようと思ってこれを書いています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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