Alan David - Completely Free (1967)映像
ゴードン・ハスケルが1960年代後半に参加したバンドFleur De Lysについては、今まで度々取り上げてきましたが、このバンドFleursは1964年にイギリス南部のサウザンプトンで結成され、1966年にベースのダニーが抜け、ハスケルが入れ替わりで加入しました。 ハスケル加入前、バンド結成から自主制作のアセテート盤二枚を作り、メジャーデビューシングルを出したFleursでしたが、ハスケル加入前のバンドは事務所も積極的に売り出していた事が彼らの自叙伝であるThe Fleur De Lys / Circlesという本に載っている様々な資料で確認できます。 ただデビューシングルの裏面は彼らの演奏ではなく、プロデューサーだったジミー・ペイジの演奏が収録され、近年の4曲入りEP発売まで日の目を見ませんでした。 1966年Fleursセカンドシングル時点での加入までのハスケルの活動歴もだいぶ判明してきました。1960年代初めにロバート・フリップとゴードン・ハスケルが級友たちとREVENSという学生バンドを一旦作り一年ほど活動後に一度解散。フリップやハスケルは個々に他のバンドにも参加してましたが、1964年から65年にかけてレイヴンズ時代の仲間とThe League Of Gentlemenというバンドで地元クラブ等で活動します。同名のバンドが他にもいくつもあったために彼らではない他のリーグ・オブ・ジェントルメンによる二枚のシングルがあたかもフリップらの参加作の様に取りざたされた事もありましたが、現在ではこれは別のバンド作品だ確定しています。(ハスケルもLOGでレコードは出してないと否定しています。) セミプロ時代の彼らは自分たちのバンド以外にも出入りして演奏しており、フリップはホテルバンド、ハスケルは兄弟デュオのダウランズ(ジャイルズ兄弟も一時期参加していた)でもプレイしてました。(この頃にハスケルはダウランズでアラン・バリーと共演していたと思われます。※後にフィールズやハスケルのセカンドLPに参加するギタリスト。) 65年夏、フリップが進学の為にバンドを離れた後もリーグ・オブ・ジェントルメンは続いた様ですが、ヴォーカリストのデイヴ・アンソニー(後にトニー・ヘッドという芸名でも活動)を中心にDave Anthony's Moodsへ発展的解消したようです。ハスケルはこのバンドの1967年シングルには関わっていませんが、最初期に一時参加していたようです。ロンドンへ出て警察に就職するも一日で辞めたハスケルは、Fleur De Lysへダニー・チャーチルの後釜として加入。 Fleursはハスケル加入後、メンバーチェンジが激しくなり、ドラマーのキース・ガスター以外オリジナルメンバーが全員抜けてしまい、コロコロと新メンバーが入っては抜けます。オリジナルラインナップ時の二年間(64-65)は、バンド自体の売り出しに積極的だったマネージメントも次第にバンドを米国から英国ツアーにくる歌手のバックメンを担当させたり、スタジオセッションで日銭を稼がせる方針へ変わっていきます。方針転換にはマネージャーのフランク・フェンターがアトランテイックの英国での重役だったことが影響していたと言われてます。 特に1967年、ギタリストにブリン・ハワースを迎え入れるころになるとその傾向が顕著になり、この年にFleursはロック、ポップス、ソウル、ブルーズと様々な分野のアーチストと関わり、ライブやレコーディングに参加。残されたレコードも多岐に渡ります。ハスケルの自伝ではこの時期のステージでジミ・ヘンドリクスと共演したり、客席にビートルズの面々やエリック・クラプトンが観に来ていた等様々な交友関係が書かれています。 さて、今回も前置きがとても長くなりましたが、その中でFleursがバックバンド参加した歌手の映像がクチパクながら現在Youtubeに確認できましたので、今回ご紹介させていただきます。ここまで長々と読んでいただきありがとうございます。Alan David - Completely Free このアラン・デヴィッドのバックをFleursが担当したのは、このシングル一枚のみだったらしく、他のシングルには彼らは関わってないようです。ちょっと調子の外れた歌いっぷりですが、ギターがサイケデリックなソロを聞かせる部分もあり発表年代を感じさせます。またハスケルのベースラインも当時のビートルズのポールからの影響が見えてますね。シングル盤のもう片面の曲もあったので以下に貼り付けておきます。Alan David "Flower Power" (B-Single, 1967, I guess) 現在この曲フラワーパワーを収録したCDも何種か出回っている模様です。2015年2月11日動画新リンク追記