若き日のジャイルズ兄弟が駆け抜けた1960年代 その1
ひと月前に当ブログが50万アクセスに達したことへの感謝として、マイケルとピーターのジャイルズ兄弟が音楽活動をはじめた1960年頃からの足跡を振り返った記事の意訳をお届けいたします。キング・クリムゾンへと至る数々の源泉のひとつと言えるのが、激流の時代を彷徨いつつ歩んでいた彼ら兄弟。英国でロックバンドの数々が花開き始めた60年代の初頭から、ロンドンを中心に爆発的に様々な若者文化が発展した60年代中期。ジャイルズ兄弟の活動はシド・スミス氏の著作にして決定盤的伝記本「クリムゾンキングの宮殿~風に語りて~(ストレンジ・デイズ刊)」や、ジャイルズ・ブラザースの60年代音源集でのマイケル・ジャイルズのライナーなど、いくつかの文献にてその当時の状況が描かれています。そこで各人の視点はマイケルやピーター、フリップらそれぞれの証言により微妙な差異や心情の違いとして現れております。今回の記事はあくまでジャイルズ兄弟の活動を中心とした内容にあたる為、シドさんのクリムゾン中心に編纂された伝記本と重なる部分もあれば、かなり異なる部分もあり、GGFに興味をお持ちのファンなら楽しんで頂ける物と思い、今回企画致しました。毎度長々した前置きとなりすみません。では早速♪彼らの唯一のアルバムは1968年のDerams最悪の売りあげだった。彼らはエドワード8世(在位1936年1月20日-12月11日)時代の会計士のように見えた。彼らは馬鹿げてもみえた。彼らはその後、魔術に掛けられたが如くキング・クリムゾンへと変貌した。しかしGGFの音楽は「21世紀の精神異常者」へと全く結びつかないし、まだフリップの演奏も聞き手へと襲い掛かる彼になる以前であった。サイケデリックやコミカルのどちらでもなく、ロックでもポップでもない。GILES、GILES&FRIPPからは自制の利いたユニークなサウンドに奇抜な英詩と奇天烈な冗談がこぼれて来る。ピーター・ジャイルズとお茶と共にしながら振り返る。彼らのデビューアルバムLPの裏面にはピーター・ジャイルズとロバート・フリップによりでっち上げられた荒唐無稽な宣伝文句が書き記されている。「ジャイルズ、ジャイルズ&フリップは成功の頂点を手に入れようとしている。そうだ、絶頂の成果を。 何百万人をもエクスタシーへと誘うスリルと無数の賛辞の中で脚光を浴びるべく。さもないと奈落へ落とされ、底知れぬ屈辱に晒され、愛されもせず、無視され貧しいままだ。」彼らは押し寄せてくる(はずの)濁流に備えていた。しかし世間は彼らを待ってはいなかったし、反応すら得られず、アルバムに焼き付けた奇妙で奇抜な情熱も窯の中で焼かれて割れた陶器のようにバランスを失っていた。600枚にも満たぬ売上げ枚数は、この当時のデラムから出された作品で最も少なかったのだが、その後長年に渡って極めて重要なアルバムとして評価を得ているか、もしくは今日プログレッシヴ・ロックと呼ばれる野心的な指標を生み出したとも言えるだろう。この浮かれたトリオがどの様に形成されたのか理解するには、我々は彼らのキャリアが作られ初めた故郷ボーンマス(Bournemouth)から振り返らなくてはならない。ジャイルズ兄弟の父親はクラシック畑で活動したバイオリン奏者だったが、兄弟はジャズや反抗的で突っ張ったロックンロールといった音楽に引き付けられていた。マイケルはドラムスを学び、ピーターがベースを手に取ると、即席のリズム隊が生意気にも出来上がり、1960年にはジョニー・キング・アンド・レイダースを皮切りにいくつものセミプロバンドで活動した。その中にはザ・ダウランド・ブラザースも含まれていた。それらは1962年から64年にかけてのことで、ジョー・ミ-クがプロデュースしたダウランズはオリオール・レーベルから三枚のシングルを出したがチャートを騒がせるまでには至らなかった。(※ジャイルズ兄弟離脱後、ダウランズはザ・ビートルズのオール・マイ・ラビングをいち早くカバーしヒットさせている。)ジャイルズ兄弟は64年からトレンドセッターズ・リミテッドへ加入、彼らがプロミュージシャンに転向する事を引き止めるものは何も無かった。彼らはロックンロールのとても有名な曲を主にカバー演奏していたが、バンドでマージービート・サウンド風の自作曲も作っていた。定期的なギグでバンドは磨き上げられ、成功したアーチストたちのツアーでバックバンドとしての需要があり、ザ・ドリフターズ、ボ・ディドリー、ジ-ン・ヴィンセントやきちがいじみたシングル「狂ったナポレオン, ヒヒ, ハハ (原題They're Coming To Take Me Away, Hahaaa ※訳注、当時キャッシュボックスシングルチャート1位)」でジャイルズたちに精神的な影響を残したナポレオン14世とも共演した。ある時は実力派のバックミュージシャン、そしてある時は自分らトレンドセッターズとして、英国とドイツで広範囲に活動。また彼らはしばしばラジオやテレビ番組(Easy Beatへの二度の出演を含む)にゲスト出演し、ラジオルクセンブルグでは彼らのステージが4回のラジオショーで放送された。1964年から67年にかけて、バンドはパーロフォンから4枚のシングルをリリースしている。In A Big Way / Lucky DateGo Away / Lollipops And Roses Hello Josephine / Move On Over You Sure Got A Funny Way Of Showing Your Love / I'm Coming Home上記以外にもBBCテレビ番組「ジュークボックス・ジュリー」で審査員全員から評価され65年にシングル用のレコーディングが行われた、Sarah Darling / It's Not As Easyは、おそらくリリースに値しないと判断され、発売されなかったのだろう。成功を得られない事への不満から、シンガー兼リードギタリストのブルース・ターナーは67年に脱退し、ザ・ルート(The Loot)へ移籍。(右端)トロッグスのリズムギタリストだったデイブ・ライトにより結成された5人組で半ダース程のシングルを残したが、そのいずれもがトレンドセッターズより売れることは無かった。ターナーが巣立った後、ページワンレコードと契約したバンドは相変わらず商才が無いくせ抜け目無いマネージャー、ロイ・テンペストに契約金の多くを掠め取られていた。4人編成に縮小した彼らは、トレンドセッターズリミテッドの契約上の商標権侵害を回避する為、呼び名であったザ・トレンドにバンド名が変わっても問題ないだろうと考えていた。レーベルボスのラリー・ペイジの支援でバンドは一枚のシングルレコードをレコーディングした。Boyfriends And Girlfriends / Shot On Sightなんら痕跡を残せ無いほど酷く売れなかったが、B面はマイケル・ジャイルズがウィルソン・ピケットのイン・ザ・ミッドナイト・アワーにはまってた頃、それを指標として書いた曲であった。バンドは今まで以上に自分たちの楽曲制作に流行音楽の影響から手がかりを得ようと決意、ビートルズのサージェント・ペパー、ディランのブロンド・オン・ブロンド、フランク・ザッパのアブソリュートリー・フリー、そしてエルヴィン・ジョーンズとリチャード・ディヴィスのヘビー・サウンズから彼らは自分自身を改革していく必要性を見出した。若き日のジャイルズ兄弟が駆け抜けた1960年代 その2へとつづく