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テーマ:ゴードン・ハスケル(164)
カテゴリ:キングクリムゾンメンバーズワーク
前回の続きになります。
Q:このアルバムが出た後、何が起こったんですか? A:僕はプロモーションのソロツアーをまわったよ。マウンテンの前座やスタクリッジ(ハスケルのWormsを後にカバーしている) オーディエンス、ウィッシュボーン・アッシュ、良いツアーだった、彼らもね。非常に上手くいった。投石もあったけど。唯物論で得た物として自宅へ再び安定した収入を入れなくてはならなくなった。アルバムを出した9ヵ月後にはソロキャリアを諦めて、バックバンドのベースプレイヤーに戻らなくてはならなくなったんだ。 Q:またポップグループにですか? A:ちょっとね。僕はジャージーなプレイをしてた。ラウンジトリオで週に6晩演奏してたよ。ロンドンのビーチェン・プレイスの地下貯蔵庫のあるセラー・レストランでギタリストやデュオと一緒に毎晩でていたね。その中に特に気に入った2人がいてね。ピート・シルズとマイク・アリソン。彼らと僕でクロスビー・スティルス・アンド・ナッシュみたいなトリオを最終的に組んでいたね。彼らはソングライターで、いい物を持っていた。僕が知らない内にブルース・ウェルチ(シャドウズ)にデモを送っていたようだ。僕も彼らとリリース予定も無いアルバムを作ったりしたよ。しかし、その7曲全てがブルースによってクリフ・リチャードに取り上げられた。 Q:何かしら契約を得たのですか?作詞作曲の印税とかの必要性ですが A:僕は曲を書いて無いからね。単にベース奏者だったから。僕がオファーを受けてもクリフのバンドでの仕事だもの。クリフのI'm Nearly Famous(アルバムのツアー)が一区切り付いて、Devil Womanを出した頃に参加したんだ。12週間のゴスペルツアーで出発したけど、4日後には正直言って僕の頭の中は退屈していたね。それでも12週間辛抱強くやりぬきましたよ。その後マネージメントは賃金をちょっと削れば更に一年間雇えると言ってたね。 Q:クリフ・リチャードとの仕事はどうでしたか? A:僕はバンドを徹底的に楽しんだ。なぜなら全て心の様だったものね。グラハム・ジャービスは素晴らしい友人になれた。彼が言うには、僕がいた頃のクリフ・リチャード・バンドのみが[ジャム]を演ってたらしいんだw 実際の構成は全てが非常に取り決められていたからね。クリフは決してミスを犯さない。それは僕の持ち味とは違うんだよね。 Q:私は貴方がまたアルヴィン・リーと仕事をするんではと思っていますが、ご近所ですし。 A:ええ、僕らは2週間リハーサルをやったよ。僕は2週間後にクリフとの仕事を得た。また僕はティム・ハーディンとも1年間働いた。僕達はいくつか録音をしたが、そのプロデューサーがアルヴィン・リーもやっていたからね。 それから僕はジョーと言う小さいけどイイバンドを組んだんだ。 ジム・ラッセル(ストレッチやヒューマン・リーグ)と、ヒロシ・カトー(ストレッチ)彼は今僕のマネージャーだけど。僕らはGTOレコードでシングルを作り、日本にも6週間ツアーで出かけたよ。フルール・デュリーに近いモノがあったね。 Q:クリフ・リチャードの後ですか? A:僕はRCAレコードと新しい繋がりでライターの契約を得たんだ。当時はベーシストだったからこれ以上何かする必要は無かったんだ。彼らは二年間ソングライターとして僕を採用した。僕はA&Rマンのビル・キンバーのプロデュース※でアルバムも制作したんだ。 (訳注・サードアルバム Serve At Room Temperature リリースは97年) Q:それは今までに、リリースされましたか? シングルは何枚か持っていますが、LPを見た記憶は無いんです。 A:これはタイミングが悪かった。パンクが起こった時だったからね。 ※ビル・キンバーは、QUENTIN E KLOPJAEGER やウィリアムEと言う名で60年代から活躍したシンガーでもあった事は以前ご紹介しました。 以上、三回に分けて意訳ではありますが、ご紹介しました。では、また♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Oct 29, 2015 01:10:40 PM
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