|
テーマ:ゴードン・ハスケル(164)
カテゴリ:キングクリムゾンメンバーズワーク
1967年からゴードン・ハスケルはバンドのみならず他のタレントにも曲を提供し始めます。その中でもっとも有名で、67年末の西ドイツではチャートにも入ったのがホールド・オン。シャロン・タンディが歌うホールド・オンが最初に日の目をみたのはこのシングルのB面だったのでした(曲自体としてはFleursがRupert's People名義で出したテイクが初出でこのシングルは数日遅れて出たようです)。翌年、ジュリー・ドリスコールスタイルのDaughter Of The Sunとカップリングしてもう一度シングル盤化されていますが、それもドイツでの売れ行きがA面で再発となるきっかけになったのかもしれません。
SHARON TANDY - STAY WITH ME / HOLD ON (Jul. 1967) ハワード・コンダーとロッド・リントンが用意した楽曲をFleursがスタジオでセッション。ブリンがギターでリフを作った後、ハスケルが歌詞を書き上げたと言うことらしいです。(2015/12追記、その後元メンバーであったガスター氏の証言で、Hold Onはハスケルとハワース共作で、コンドルとリントンは勝手に共作名義に仕立てた事が判明。ブリン・ハワースの名は作者クレジットから意図的に排除されていた。) Fleur De Lysの復刻CD REFLECTIONSに収められているヴァージョンは盤起こしのリマスター、それも1990年代の技術でなので今レコードと聞き比べるとどうしてもレコードでのリミッター部分をCD化に際し古いデジタル処理している為に高域がざらついています。後に出たシャロン・タンディのCDの方が年代が後の為、音質的にも安定しています。 レコードでちょっと音量を上げて聞くと、パンっと張り詰めた空気感が感じられ、バンドが一発録音していた時代の鮮度が現れてきます(この曲は4TRレコーディングでしたが)。同時に古いレコードをCDへ再現することの難しさを覚えます。 余談: ゴードン・ハスケルがFleursのバイオで、好きなギタリスト名に「ロバート・フリップ」と書いていたという話は、シド・スミスさんのクリムゾン伝記本で知られていますが、Fleursを抜けるきっかけになったのも、フリップが「一緒にまた演奏しないか」とベースとギターの抜けた穴を募集していたキューピッズ・インスピレーションへの加入に誘ったことからでした。以前からこの時期についてはハッキリしていなかったので、ハスケルがFleursを抜けたのはGGFやセッション日時からみてJohn Bromleyセッション後の68年3月とばかり思い込んでいました。しかし、資料を見るとハスケル参加のシャロン・タンディのシングル Hurry Hurry Choo Chooのデモセッション段階が68年4月(しかもプロデュースがドニー・エルバート)。ということは、ハスケルのFleurs脱退はもうちょっと後となるのでしょう。GGFを結成するもろくにライブも無く食えずにジャイルズ兄弟に文句を言ってたフリップとしては、食い扶持をハスケルと一緒にバックバンドで稼ぎたかったのかもしれません。それにしてもGGFの活動歴から見てかなりダブってますね。結局フリップはキューピッズのバックバンドに加わらなかったわけですから、それもGGFが動き出した事と無縁ではなかったのでしょう。デッカとGGFが契約したのは68年の2月中旬。いったいどの時点での話しなのか、微妙なところですね。フリップが年末年頭に掛けて地元ホテルでのバンド演奏してたのから推測すると1月から2月あたりに声をかけた、とみるのが筋でしょうか?となるとハスケルのキューピッズへの参加がFleursのセッションと被っていたというのもありそうですね。掛け持ちも結構あるものですし。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Dec 13, 2015 03:10:42 AM
コメント(0) | コメントを書く
[キングクリムゾンメンバーズワーク] カテゴリの最新記事
|
|