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テーマ:キングクリムゾン(654)
カテゴリ:キングクリムゾンメンバーズワーク
プロデビュー前のジャイルズ兄弟やフリップ離脱後のリーグ・オブ・ジェントルメン、そしてトニーヘッドに改名後はFleur De Lys(以下FDL)にも加入したりとクリムゾン以前の複雑に絡み合ったボーンマス人脈にちょいちょい名前が出てくるデイブ・アンソニー。
1965年末、ゴードン・ハスケルらとロンドンへ繰り出し自身のバンド、 Dave Anthony's Moodsを組みますが、ハスケルは早々にダウランズのツアーに加わってしまって離脱してしまいました。このダウランズ時代にたくさんのミュージシャンと関わりを持ったハスケルは、ベースの欠けたFDLのオーディションを受け、バンド加入しセカンドシングルのサークルでレコードデビューを果たします。(ハスケルが後の2ndソロでアラン・バリーをギターに起用したのもダウランズで共演してた縁があるのではないかと考えられます。) 一方のデイブは自身のバンド名義で1966年本国レコードデビューを果たしますが、実は翌年になってからイタリアのみで二枚バンド名義のシングルを発表してます。それが当時流行っていたプロコルハルムの青い影のカバーシングル。 Dave Anthony's Moods - A whiter shade of pale (1967)(Joker M 7001) ハスケルの方が同時期にルパーツ・ピープル名義のシングルで青い影のアンサーソング的なリフレクションズ・オブ・チャーリー・ブラウンを演奏してるわけですからややこしいですねw Rupert's People - Reflections Of Charles Brown デイブ・アンソニーがトニー・サイモン名義でFDLとレコーディングしトラックレコードから出した唯一シングルは、以前一度取り上げました。 TONY SIMON - GIMME A LITTLE SIGN / NEVER TOO MUCH LOVE (Oct. 1967) http://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201212150000/ この後、デイブ・アンソニーはトニー・ヘッド TONY HEADに名前を変えFDLに正式加入、末期までバンドを支え、シャロン・タンディともデュエットシングルを出したり、ソロアルバムを出しましたが、ハスケルはフリップにそそのかされてFDLを離脱しキューピッズ・インスピレーションに加入した為、デイブとFDLで一緒だった在籍期間はとても短い時期だったのでしょうね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Aug 4, 2014 09:37:50 PM
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