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テーマ:キングクリムゾン(654)
カテゴリ:キングクリムゾンメンバーズワーク
以前から当ブログでゴードン・ハスケルがプロバンドデビュー当初から他の歌手への楽曲提供をしていた事についてたびたび取り上げてきました。しかし、その経緯の多くが不明だったりしたのですが、その後判明した事を久しぶりにまとめたいと思います。
1965年秋にザ・リーグ・オブ・ジェントルメンを解散させたハスケルと末期のヴォーカル担当のデイヴ・アンソニーは、ロンドンへ出てDave Anthony's Moodsというバンドを組みました。(その間三日程ハスケルがロンドン警察で働いてすぐに辞めてしまった事もありましたが) 彼らはロンドンへ出た際に様々なミュージシャンと出会いますが、やはりそこには同郷ボーンマス出身で既に人気者になっていたズート・マネーの人脈が大きく関わっていたようです。そういう中でベースの抜けてたDowlandsのツアーにハスケルは参加し、デイヴは自身のバンドでのデビューへと別れます。 50年代末からのスキッフルバンド出身で既に経験豊富なダウランズとの巡業はこれまた多くのミュージシャンとの出会いをハスケルに与えました。60年代半ば頃までのイギリスでの音楽興業形態は5つ前後のバンドによるパッケージツアーで、ひとバンド2,30分の持ち時間で演奏を交代しながら行われており、それ故必然的に様々な人間との交流の場となったわけです。 多くのバンドメンとの交流には演奏家もいればバンドを見に来る音楽好きな連中もおり、これらが次々に生まれては発展したり消えていく様々な人間関係を生み出したのですが、その中でダウランズのファンであるマーティン・スミスという人物とハスケルは知り合います。スミスからサウザンプトンのバンド、Fleur de lys(以下FDL)がギグでの演奏者を求めてると聞き、1965年末FDLのオーディションを受けに行きダニーの後釜としてハスケルがバンドに加入したわけです。 ロンドンでは紆余曲折の末にジ・アニマルズが西ケンジントンに持っていたフラットに暫く住み込むことになります。英国へきたジミ・ヘンドリクスと9ヶ月間同じフラットにいたのもこの頃のようで、ジミはハスケルの所にきてはハスケルのアコースティック・ギターをいじってたそうです。またフィル・ソウヤー在籍末期FDLのセッションにジミがギターを被せた曲もあったそうですが、今現在発見されておらず記録だけが残されています。 FDLのマネージャー、フランク・フェンターはバンドをロードに出してもいくらも稼げ無い事を知っていたので、彼らを様々なスタジオセッションに派遣しだします。66年頃においてはジミー・ペイジらのようなロック系のスタジオミュージシャンの数もまだそれほど多くなかった事もあったのでしょう。フェンターがアトランティックの英国でのヘッドであった事も手伝い、事務所に週千ポンドもの収益をもたらせたそうです。 そんなセッション活動をしていたFDLが1967年南アフリカから英国へ来たビル・キンバー(ビリー・フォレスト)の英国でのシングル盤レコーディングで演奏する事になりスタジオに入りした際、現場で「B面に入れる曲を用意してない。」と言う事が判明します。何かしらの手違いがあったのかどうかは定かではありませんが。 その時、ベース担当だったハスケルが「僕が書き上げたばかりの曲があるけど」と自作した歌を披露しレコーディングする事となりました。その曲が彼が初めて他のアーチストに楽曲提供した「レイジー・ライフ」Lazy Lifeだった訳です。 キンバーは英国でのリリーズ名をウィリアム・Eとしてシングルをリリーズしましたが、よほどレイジー・ライフが気に入ったのかA面に配しています。 William E - Lazy Life / CRAZY HOW LOVE SLIPS AWAY (1967) また翌68年南アフリカに戻ったキンバーは自身のバンド、ゴンクスと共に再レコーディングし、クエンティン・E・クロップジャイジャー名義で発売。南アフリカチャートで2位まで上がるヒットとなりました。 Lazy Life - Quentin E Klopjaeger (1968) この歌のヒットは他の歌手のカバーを招き、南アフリカではジ・アウトレットによりカバーされました。 The Outlet - Lazy life (1970) また以前少し取り上げましたが、60年代初頭から英国のアイドルロッカーとして活躍したビリー・フューレイもこの歌をカバーしています。以前はなぜ彼がカバーしたのか理由がサッパリわかりませんでしたが、フューレイは元々ダウランズとも非常に近しい歌手だった為にハスケルと繋がるのではないかと考えられます。 画像はLazy Lifeを収録したBilly Furyベスト盤。 ビル・キンバーと同じ1967年に渡英したビージーズ関連オーストラリア人アイドル歌手ジョニー・ヤングの英国盤でもFDLはレコーディング参加しています。 Johnnie Young - Every Christian / Epitaph To Mr. Simon, Sir (1967) またジョニー・ヤングはアルバムでハスケルが共作したHold Onを取り上げました。 こちらの豪州人脈から発展したのかどうかは判りませんが、1969年オーストラリアでブラスを含む大所帯バンドHeart'n'Soulによりレイジー・ライフがまたもカバーされオーストラリアチャートで4位を記録しました。 Heart'n'Soul - Lazy Life (1969) クエンティン名義南ア盤、ジ・アウトレット版、ビリー・フューレイ版のいずれもが最初のウィリアムE名義の演奏に基づいたアレンジメントだったのと比較すると、このHeart'n'Soulのアレンジはストリングスも入れたドリーミーな編曲になっており一味違った作風に仕上げられています。 以上のことからシド・スミスさんの著作で書かれている、まだアマチュア時代のフリップがハスケルの母の勤め先を訪ね、先にプロデビューしてたハスケルの連絡先をきいた際に「息子の曲が南アフリカとオーストラリアでヒットしてる」と言われたのは、南アフリカはレイジー・ライフ、オーストラリアはジョニー・ヤングの何がしかの曲であろうと推測されます。Heart'n'Soulのカバーでは69年となり時期的にも可能性が無いといえるでしょう。 またハスケルの1stソロSail in my boat(1969)からのカバーソング「ザンジバル」の南アでのカバー曲も発表が1970年となってるので該当から外れます。 WANDA ARLETTI - ZANZIBAR (1970) 以上、過去に紹介した様々な記事とカバーについて、その関係性が少し判明した分を改めてご紹介させていただきました。毎度のことながら長々と最後までお読み頂きありがとうございました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Aug 4, 2014 09:36:23 PM
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