|
カテゴリ:キングクリムゾンメンバーズワーク
現代では自宅録音、つまりディスクトップミュージックという宅録環境は音楽演奏を楽しむ人にとっては至極ありふれた手法になっていますね。これが手軽に出来るようになったのにはデジタルテクノロジーの進化が大きく寄与してきましたが、80年代にカセットテープを利用したマルチトラックレコーダーでの多重録音が一気に普及したのが大きかったと言えるのでしょう。
それまで民生用で低価格の録音機自体がまずありませんでしたし、70年代に時代を遡ると素人でも手の出せるMTRというと4トラックや8トラックのオープンリールデッキになってしまい、ランニングコストも機材の大きさや重さも大きくて中々所有している人もいませんでした。一部の録音も行なえる音楽スタジオや教育機関で触れることは出来ましたが、まだ一般的というには程遠い存在であったのです。 70年代に自宅録音していた人はカセットやオープンテープのデッキを複数台使って演奏を重ねていくピンポン録音が主な手法だったでしょうね。友人同士で機材を持ち寄ってとか。 ========= これが1960年代になると、一般人にはレコーディング機材そのものがほとんど普及していませんでした。当時おもちゃには自宅でソノシートを作れる機種もありましたが、音質や収録時間の短さなどおもちゃなりの機能しか持ってないものでした。オーディオマニアや有名芸能人、音楽家でオープンデッキを所有している人がいる程度だったでしょうね。また機材の種類もプロ仕様の物がほとんどでマイクやミキサーも非常に高価でした。 録音技術者をエンジニアと呼びますが、当時はまさに音楽の製作現場でも演奏家のいるスタジオ部分と調整卓のあるエンジニアルームは明確に分けられていており、録音に関わる作業は専従のスタッフが行う事という環境で、今のように演奏者がミキサーや機材に触れるような時代ではなかったわけです。 ========= 英国でも1960年代前半ビートルズがデビューした時代、調整室で機材をオペレートするのはあくまでスーツを着たエンジニアたちで、ビートルズの場合はプロデューサーのジョージ・マーティンの配下であったノーマン・スミスが初期から中期までのレコーディングでその手腕を発揮しています。まさに文字通りの職人が手掛けていたわけですね。 英国のロック産業は1960年ごろからようやっと芽吹いたのですが、当初はアメリカのコピーのような、つまり英国盤エルビスみたいなものばかりでした。62年ビートルズの登場で自作曲を演奏しながら歌うスタイルが徐々に英国でも始まりました。エンジニア出身のジョー・ミークがプロデューサーとしてマイケル+ピーターのジャイルズ兄弟が演奏しているダウランズのシングルを録音していた年でもあります 例としてビートルズの初期アルバムから中期、66年ごろまでのアルバムで考えて見ましょう。 最初期のアルバムは短い時間でエンジニアが拾音のセッティングを行い、3時間のセッションを三回で録音を終わらせています。まさに演奏家は歌と演奏に集中するのみで、録音に関してはエンジニア、ノーマン・スミスの独壇場と言うわけです。 これが作品を重ねるごとに徐々にレコーディングに様々な工夫と時間を凝らしていきましたが、ノーマン・スミスがプロデューサーになる為ビートルズのレコーディングから離れる66年初めまで実質的にレコーディングはマーティンの指示の下、ノーマンが取り仕切っていたわけです。 ========= ビートルズのアルバム、ラバーソウルと次の作品リボルバーは、それまでのビートルズ作品と違い明確に芸術性を高めたアルバムでしたし、メンバーが「両アルバムは双子のような作品」と称したように、ある意味様々な創意工夫が盛り込まれたエポックメイキングなビートルズ作品のスタートでしたが、両者に明確な違いがあるとしたら、それはスタジオのボスだったノーマン・スミスの有無があげられます。 調整室はエンジニアの領域と言う昔かたぎのノーマンがラバーソウル後現場から離れたことで、ビートルズの面々は調整室での様々な実験にまで手を染め始め、リボルバーでのテープループや逆回転など、前作よりかなり実験性を押し出した作風へとサウンドが変貌を遂げました。 これは当時人気絶頂で予算もスタジオ時間も充分に使いまくれたビートルズだったからこそできた側面もありますが、この当時はビートルズ以外のポップスの領域にも実験性のある作品が徐々に姿を見せてきた頃でもありました。 ========= それまでプロデューサーやエンジニアの牙城であった調整ルームの作業にミュ-ジシャンが進出し始めると、次第に音楽制作の体制が大きく変化してきます。もちろんそうはならずに低予算で録って出しで量産していたアンドリュー・オールダムやジョー・ミーク等もいましたが、時代の趨勢で次第に彼らは流行の波から取り残されていきます。 皮肉な事にビートルズの制作から離れたノーマン自身も67年にピンクフロイドのデビュー当時にプロデューサーとして関わったのもロックの進化過程においてスタジオワークの比重が次第次第に大きくなっていく歴史の一端と言えますね。 またロックの主流がシングル中心の時代からアルバムでアーチスト性を押し出す時代にシフトしていく時勢となり、クリームなどのアーチストが活躍しだします。もちろんマイナーなバンドにはアルバムまで発売できずに離合集散していく連中も多く存在してますが、70年に近づくに連れロックバンドの多様性は爆発的に広がりだしました。 ========= 60年代末にかけて多数の世に排出されたロック系アーチストも、その個性や表現手段としてスタジオワークにじっくりと時間を掛けたり、凝りに凝った企画を盛り込み始めます。60年代のほんの短期間にレコーディング機材や技術も進化しましたが、同様にミュージシャンがスタジオ作業で次第次第に主体性を持ち始め、それらを思うように扱えるようになっていた制作背景が、その後のプログレッシヴ・ロックの多くのバンドが生まれる素地になったといえるわけです。 キング・クリムゾンの1STアルバム、クリムゾン・キングの宮殿制作では、当初ムーディズのエンジニアであったトニー・クラークのプロデュースでムーディブルースでの制作手法を持ち込まれ、クリムゾンメンバーと対立した話はシドスミス氏の伝記本などで知られてますね。 結局クリムゾンメンバー自身のプロデュースでアルバム制作をしなおした訳ですから、まさにあのアルバムもスタジオワークをミュージシャン自身が仕切って完成へとこぎつけた作品。60年代末の時代、スタジオワークの発展とミュージシャンとエンジニアルームの垣根が取り払われてこそ生み出せたアルバムという一面も持っているのでしょうね。 ========= 余談ですw: 今回はいつもと毛色の違ったエンジニアルーム視点でのプログレッシヴ・ロック勃興までのざっくりとした史観となりました。 かってキング・クリムゾン歴代メンバーでもそのレコーディング姿勢に異を唱えたメンバーがいましたね。そう、ゴードン・ハスケルです。60年代に様々なジャンルのアーチストのバックを勤めたり、レコーディングセッションをこなした彼も旧体質のレコーディングの簡素ですばやい作業に慣れ親しんだ人物でした。故にリザード制作時にあまりに音決めやアレンジに手間隙をかけるフリップに文句を言ったのでした。学生バンドを組んでた65年からたった5年で両者の経験と音楽的な思想の違いがあの時にはっきりと出てしまっていました。 ハスケル自身にしても68年頃FLD時代にアメリカでヴァニラファッジ所有スタジオでヴァニラファッジらとセッションし、ミュージシャン主体のスタジオワークを経験済み。ただしマネージャーで事務所ボスのフランク・フェンターにその録音テープを「金と時間掛けてゴミを作った」とこき下ろされ却下された過去がありました。FDL時代のハスケルがジミヘンやヴァニラファッジと行ったセッションは現在行方不明で今後も出てくる見通しは無いのでそのサウンドがどういうものだったかうかがい知ることは出来ませんが、彼自身新しい物を生み出せる機会を失い残念に思っていたようです。そんな彼もその後多くの経験を積み、今やレコーディングセッションには非常に慎重になったと語られていました。出来うれば彼らが互いに笑って語れる時代が訪れん事を。 今回は久々に長々と書いてしまいました。最後までお付き合いして頂き誠にありがとうございます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Dec 29, 2015 10:02:58 PM
コメント(0) | コメントを書く
[キングクリムゾンメンバーズワーク] カテゴリの最新記事
|
|