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カテゴリ:プログレッシヴ・ロック
前回のYES三代目ドラマー、トニー・オライリーに引き続き、初期イエスでビル・ブルーフォードが1968年9月下旬に抜けて11月下旬に復帰するまでの間バンドに関わったドラマーの件です。
大学に戻る為ビル・ブルーフォードが抜けた1968年9月下旬のわずかな間だけYESにいたDave Pottsさん。一体何者なのでしょう?と思いちょくら調べてみました。 若き日のデイヴ・ポッツさんは、1966年にクライン・シェイムズ(綴りが微妙に違う同名の米国バンドでない英国の方のCrying Shames)に参加してたそうです。メンツの入れ替わりが激しいバンドだったので時期的にリッチー・アンド・クライン・シェイムズの頃のようですね。ポッツが参加したとき既にバンドはTOP20のヒット曲を持っていましたが、後から加入した彼はそれらのヒット曲で叩いてないそうです。このバンドもブライアン・エプスタインに飼われてたバンドだった様で、バンド初期にはジョー・ミークが制作で関与していたそうです。 その後ポッツは1967年にニューキャッスルで結成されたスキップ・ビファティ(Skip Bifferty)というアンダーグラウンドバンドに参加。オジー・オズボーンの嫁シャロンの父がマネージャーだったバンドで、グラハム・ベルが在籍したことで知られ、後のイアン・デューリーやクラッシュに連なる人脈を持つバンドらしいです。 ポッツはコチラも長続きはしなかった様で、68年発表のアルバムにポッツの名は微塵もありませんでした。 ブルーフォードが大学に通いだしYESから離れた1968年9月、実はジョン・アンダーソンと住んでいたそうなんです。このポッツ氏がw そういう縁かよと突っ込みたくなりますねw この頃バンドがドラマーを探してたということもあり1週間弱一緒にリハを行ったそうです。 (海外サイトではポッツの参加期間について、売り出し中で連日演奏してたYESが1週間ほどギグを行わなかった9月22日から27日がその時期ではないかと考察してるサイトもあります。) 参考サイト YES GIGS 1968 http://www.m-ideas.com/sullivan/Yesgigs.html List of Yes concert tours https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Yes_concert_tours リハがひと段落した週の終わり、当時YESをマーキーで売り出してくれてたクラブ・マネージャー、ジャック・バリーを交えてディスカッションが行われることとなったそうで。その際、ジャック・バリーからクーバスのトニー・ケリー(トニー・オライリー)を使うよう提案があり、どちらがやるべきかドラマー同士でも話し合われたのだとか。 ポッツ「トニーは22歳で僕はまだ18歳、彼の方がレベルが高かった。僕も22歳になればもっと上手くなれたのだろうけど。」 その後あちこちのバンドを渡り歩いたそうで、フランプトンズ・キャメルやロイ・ヤング、グラハム・ベル(ポッツが抜けた後にアラン・ホワイトが参加w)、テン・イヤーズ・アフター、そして後期のラヴ・アフェアーなど。 (画像中央がDave Potts) その後、レイ・トーマスやバルビ・ベントンのアルバムに参加、ピーター・フランプトン(カムズアライヴが大ヒットした頃のツアー)やオジー・オズボーンなどとツアーで演奏し、1980年からはプレイング・マンティスで活動していたそうです。(かなり日本でも知られたバンドなのだそうですが、ヘビメタ関連はわからないのでこの辺でw) なんだ、結構ご活躍されてるじゃありませんかポッツさん。キャリアも相当長いですね。決して無名のそこらに転がってるなんちゃってドラマーじゃなかったのです。 結局68年秋のデイブ・ポッツとイエスの関係は、同居人アンダーソンつながりで練習参加した程度だったのでしょうね。アイランズ制作前のキング・クリムゾンのオーディションでベースに決りながらも辞退したリック・ケンプ同様、正規メンバーになる以前のリハ参加程度だったようです。 ポッツ氏の参加作品で日本でも知られてるものというと、プレイボーイレコードでデビューしたバルビ・ベントンの1978年4枚目アルバムAin't That Just the Wayがありますが、レコードを所有して無いのでどの曲に参加してるか判らないです。ロジャー・グロバーのプロデュースでサイモン・フィリップス他メンツも凄いのでちょっと探してみようかなとw あとお祈りカマキリことプレイング・マンティスの1981年アリスタから出たアルバムでも全面叩いてるそうです。(バッキング・ヴォーカルのクレジットもあるそうでw) プレイング・マンティスは2015年11月に来日するそうですが、当然初期メンのポッツさんはおりませんし着ませんw プログレ人脈だと元ムーディ・ブルースのレイ・トーマス作品From Mighty Oaks (1975)にも参加してますが、個性的かと聞かれるとんー。一応貼っておきますのでご参考に。 RAY THOMAS - High Above My Head ※10/17追記 Mandrake Paddle Steamerマンドレイク・パドル・スチーマーの末期、ヴォーカルとギターが抜けた後のトリオ編成時にポッツ氏は参加してたようです。調べるほど微妙過ぎるバンド暦が出てくる人ですね。 ツイートで「絶妙にブレイク直前などの時期ばかりを渡り歩く、コージー・パウエル先生とは真逆の人生~('ε'*)」と的確なご指摘を受けましたw ホントそうですね。 ※2016/10/25追記 その後の調べで、ビルがYESを一旦抜けたのは1968年8月末日のギグ。 後任のトニー・オライリーが初参戦したギグが1968年9月6日のマーキーと判明。 デイブ・ポッツはビルが抜ける事が判った時点で同じフラットに同居してたアンダーソンらから、リハーサルに誘われてたのでしょう。結局、バンドに正式加入したのはオライリーで、ポッツさんはリハのみだったようです。 オライリーが最後にYESと演奏したのは11月18日。。 11月5日ブレイスでのギグは、一日だけイアン・ウォーレスが叩いたという事が判りました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Oct 26, 2016 04:25:33 PM
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